同四年には、祖父清康の一字を取り「元康」と改め、岡崎の家臣とともに戦場に出るようになった。

 おなじみの「家康」と名乗るようになるのは、嫡男信康と織田信長の娘徳姫との婚約が成立し、信長と同盟を結んだ永禄六年(1563)頃である。しかし信康は、家康の命令に従わず、信長をも軽んじ、家臣にも非道な扱いをしていたため、天正七年(1579)、家康は、信長に信康の処分の許可を求めたという。その結果信康は切腹し、母の築山殿も家臣により殺害されたのである。なお徳姫が、信長に信康への不満を書き送り、それを受けた信長が、家康に信康の切腹を命じたというエピソードは、『三河物語』などに記されているフィクションである。

 3歳での母との別離、長きにわたる人質生活、嫡男と正室の死。それは、今川家と織田家との関係に翻弄される中、松平家(のちの徳川家)の生き残りのため、奮闘した結果であっただろう。これらの経験が、家康の人格形成や、その後の生き方に大きく影響したに違いない。

■「人を動かし、生かす!」文官重用への巧みな転換

 家康の重臣をめぐる次のようなエピソードがある(『寛政重修諸家譜』)。

 信長の死後家康は、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで、秀吉と覇権争いをした後、同十四年に、和議のしるしとして秀吉の妹朝日姫を継室に迎えることとなった。無事婚儀が調ったことを秀吉に報告するため、家康は奉行の天野康景を上洛させた。すると秀吉は「この使者には、酒井忠次・榊原康政・本多忠勝のような者が来ると思っていたのに、名前も聞いたことがない」とつぶやいたという。それを聞いた織田信雄(信長の次男)は、家臣を通して家康に「老臣」のだれかを上洛させるよう知らせた。家康が、あらためて本多忠勝を遣わしたところ、秀吉は大変喜んで彼をもてなしたとのこと。

 秀吉が名前を挙げた3名に井伊直政を加えた家臣たちが「徳川四天王」といわれ、いずれも、家康の信頼厚く、ともに数々の戦場で活躍した猛者たちであることは説明するまでもないだろう。そのような、戦時下で最も活躍した彼らの家は、江戸幕府が開かれてから、どのような位置づけとなったのだろうか。

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猛者たちが幕府政治向きの職務につかなかったのは