ジャイアント馬場の向こうを張って、“ジャンボ”の異名で親しまれたのが、193センチ右腕の仲根正広だ。

 72年に日大桜丘のエースとしてセンバツ優勝投手になった仲根は、鈴木孝政(元中日)とともにドラフトの目玉となり、指名順4番目とくじ運に恵まれた近鉄が1位指名。セの在京球団希望だった仲根は当初「一番知らない球団」に難色を示したが、その後、近鉄側の猛アタックが実り、一転入団となった。

 1年目の目標は「20勝、20本塁打」。実現すれば、大谷より40年も前に“リアル二刀流”が誕生していたところだが、翌73年は、1試合3ボークを記録するなど粗さが目立ち、1勝8敗に終わった。

 2年目以降も肩を痛め、78年までの5年間は、1軍登板わずか5試合。肩の故障は、練習でコーチに鉄球を投げさせられたことが原因と噂されるなど、育成環境にも恵まれていなかったようだ。

 だが、79年から左打ちを生かして打者に転向すると、83年に14本塁打を記録。夢の二刀流は不発に終わったものの、打者として入団時の目標に近い結果を残した。

 もう一人、“ジャンボ”と呼ばれた男が、79年夏の甲子園4強、横浜商の193センチ左腕・宮城弘明だ。ヤクルト入団後は肘の故障に苦しみ、在籍5年で0勝3敗、防御率7.17と、こちらも“離陸”できずじまいだった。

 巨人のドラ1として将来を嘱望されながら、1勝もできずに終わったのが、191センチ右腕・谷口功一だ。

 天理高時代は1年先輩の193センチ右腕・南竜次(元日本ハム)と“ツインタワー”を形成し、90年夏の甲子園を制した。翌91年のドラフトで、若田部健一の抽選に敗れた巨人が外れ1位で指名。ここから野球人生が大きく変わっていく。

 1年目は2軍で4勝を挙げ、ビッグ・ホープ賞を受賞と順調なスタート。同年オフ、13年ぶりに復帰した長嶋茂雄監督も、若手投手の1番手として目をかけていた。

 翌93年、不調の槙原寛己に代わって1軍登録された直後のヤクルト戦で、8回に初登板も、最初の打者・池山隆寛に一発を浴びるなど、1回2失点のほろ苦デビュー。前日2軍戦で6回を投げたばかりとあって、「まさか投げるとは思わなかった。連投で腕が振れませんでした」と落胆する姿は、その後の運命を暗示するかのようだった。

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斎藤佑樹と投げ合った大型投手は?