何でもやった、と本人が述べる通り、汪氏の半生は壮絶だ。10代から傷害や強盗などに手を染め、20歳のときに暴力団組員の腕を日本刀で切り落として少年院送致。その後も特殊詐欺などで約2億円を奪取し、28歳で逮捕されてから13年間の服役生活を送った。

 彼が犯罪に手を染めるようなった経緯には、怒羅権という集団の成り立ち、そして1980年代の中国残留邦人の社会的な立ち位置が絡み合っている。80年代は残留邦人の帰国が本格化した時期で、汪氏も86年、14歳で日本の土を踏んだ。だが、編入した江戸川区の中学校で待ち受けていたのは、中国では経験したことのない差別だった。

「私の中学校には約60人の残留邦人2世がいましたが、私を含めてほとんどの者が日本語を話せませんでした。また、私たちは貧しく、文房具すらまともに揃えられなかった。そうした違いを日本人の生徒にバカにされます。先生の大部分は笑う生徒たちをたしなめてもくれません。気分を害したような顔をするだけで、何もしてくれないのです」

 当時、語学教習や職業訓練、就職の斡旋のような支援策はほとんど整備されていなかった。残留邦人とその子どもたちは徒手空拳で未知の社会に放り出されたようなもので、日本人の“自分たちとは異なる者たち”への視線も冷ややかだった。やがて、そうした態度は積極的ないじめへと変わっていく。

「侮辱的な言葉で罵られたり、殴られたりする者が大勢いました。いじめに対する反応はさまざまです。『日本人になりたい』と願う者は頑張って耐えましたし、心を病んで命を絶った者もいます。そして、なかには殴り返す者もいたのです」

 汪氏もそのうちの一人だった。殴り返すと、いじめる側は上級生を呼ぶようになる。上級生にも対抗していると、やがては校外から暴走族がやってくる。汪氏たちは襲撃から身を守るために固まって行動するようになった。「これが怒羅権の始まりです。最初の怒羅権はいじめに対抗するための助け合いの集まりだったのです」(汪氏)。

●犯罪者集団への変質はなぜ起きた?

 しかし、自衛のための集団は間もなく変容していく。最初の変化は、仕返しという形で積極的な攻撃を行うようになったことだ。

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