●第2の怒羅権を生まないために

 学校に良い記憶はほとんどない、と語る汪氏だが、ただひとり恩師と呼ぶ人物がいる。汪氏が日本で最初に編入した中学校で、残留邦人の子供たちを長年に亘って受け持った岩田忠・元教諭だ。「他の先生が残留邦人から目をそらすなか、岩田先生だけは私たちに真正面からぶつかってきてくれた。悪いことをすれば殴られることもあったけれど、無視される精神的な痛みよりゲンコツの方がはるかにマシでした」(汪氏)。

 当の岩田氏は当時を振り返り、「自分のやり方が正しいのか、悶々としながら暗中模索していた」と明かす。

「いち教師として出来ることなど、たかが知れていました。しかし日本人と中国人の間で苦悩している子どもたちを前にして、逃げることはできなかった。国の制度も未整備の状況で、現場の者が逃げたら彼らは本当に孤立してしまう」(岩田氏)

 汪氏をはじめとした怒羅権のメンバーはやがて学校をドロップアウトし、岩田氏の手の届かないところへいってしまった。それを想い、「自分の力が足りなかったのではないか」と今でも時折自責する。実際、自身の教室では残留邦人の子どもたちに中国語で会話することを許していたが、周囲からは「日本への適応が遅れる」「そうしたことが怒羅権のような集団を生む素地になったのではないか」などと非難されることもあったという。

「ですが、中国語で他愛のないことを話しているとき、彼らは本当にいい顔をするのです。日本語の授業を受けているときは緊張した、つらそうな顔。当時あの場で行われていたのは特定の価値観を押し付け、それにそぐわない者は間引いていくという行為でした。でも、私たちが向き合っているのは『命』なのです。同じところも違うところも、存在をまるごと受け入れて一緒に生きていく道を考えていかなければならない。怒羅権の犯罪は決して肯定できませんが、『自分たちと違う人々』に手を差し伸べる社会の回路が不在であったことが、あの集団を生み出したのは確かだと思います」(岩田氏)

 そして、この問題はいまだ解決されていない。いま世間を騒がせるベトナム人実習生などの犯罪は、怒羅権が生まれた経緯と同じ根っこを共有している。「多文化共生」というスローガンが空転しつつある今、「犯罪は自分と仲間をつなぐ媒体」だった、という汪氏が述べた悲しい言葉を、私たちが改めて考える意義は小さくない。(取材・文/小神野真弘)