「当時、江戸川区に常盤寮という残留邦人の受け入れ施設があり、情報交換の拠点になっていました。公衆電話が設置されていて、いじめられた残留邦人2世が東京のあちこちから電話をかけてきました。私たちはそれを聞くと相手の学校に乗り込み、いじめをする不良を撃退するようになりました」

 虐げられる同胞に対する義憤があった、と汪氏は回想する。だが、この時点で何かがズレ始めていた。

「当時の私たちは12人の小さなチームで、不良や暴走族を相手に毎日のように喧嘩をしていました。不良文化や暴力の近いところに常にいると、気づかないうちに影響を受けます。そして同じような行動をとるようになるのです」

 例えばこの時期に、汪氏は暴力がカネになることを知った。たまたま喧嘩になった相手を打ち倒すと、相手は財布を差し出して許しを請うたという。中身は3000円ほどだったが、日々の食べ物に事欠くほど貧しかった汪氏には衝撃的な体験だった。以来、カツアゲは日常的な収入源になり、行為は車上荒らしや強盗まがいのものへとエスカレートしていった。

 もちろん、怒羅権メンバーのように犯罪に手を染めるようになった残留邦人2世はごく少数派で、ほとんどの者は真面目に生きていた。犯罪に走った者とそうでない者、両者の違いは何だったのか。汪氏は大きな要因として「家庭環境」を挙げた。

「家に両親が揃っていて円満な関係であれば、学校でいじめられたり、貧乏だったりしても自分の居場所を見出すことができます。怒羅権に参加した者は総じて家庭環境が良くなかった。家はいわば最後の居場所なのだと思います。それにすらすがれないと悟った子供が抱く感情は、絶望なんて生易しいものではありません」

 汪氏の家庭も複雑だった。中国人の父と日本人の継母と暮らしていたが、父からはネグレクトに近い扱いを受け、継母に対しては他人という感情を拭えなかった。疎外感と居心地の悪さをずっと抱えていた。そんななかで唯一、帰属意識をもつことができたのが怒羅権だった。だからこそ組織の内部では犯罪すら肯定され、ブレーキが働かないまま先鋭化していったのだという。

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