内海桂子師匠の遺志を継ぐナイツ 地道な浅草での修業が異例の快進撃を生む (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

AERA dot.

内海桂子師匠の遺志を継ぐナイツ 地道な浅草での修業が異例の快進撃を生む

連載「道理で笑える ラリー遠田」

このエントリーをはてなブックマークに追加
ラリー遠田dot.#ラリー遠田
ナイツ(C)朝日新聞社

ナイツ(C)朝日新聞社

 9月7日にニッポン放送で新番組『ナイツ ザ・ラジオショー』が始まる。月曜から木曜の昼に放送される帯番組で、ナイツの2人がパーソナリティを務める。

【写真】43年前の内海桂子師匠はこちら

 ナイツはTBSラジオでも土曜の朝から昼の時間帯で『土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送』という番組を持っている。1組のタレントが、2つのラジオ局をまたにかけてこのように同系統の番組を受け持つのは異例のことだ。

 幅広い年齢層に支持されているナイツは、中高年のリスナーが多い昼のラジオを受け持つのにふさわしい存在だ。ラジオでも、まるで漫才のような2人の自然な会話が心地よい。

 ナイツは、同じ大学の落語研究会に所属する塙宣之と土屋伸之によって結成された。2人はウッチャンナンチャン、出川哲朗らが所属するマセキ芸能社に入った。土屋の母親が演歌歌手としてこの事務所に所属していたからだ。

 彼らは芸人としてテレビに出て売れることを夢見ていた。だが、当時、マセキ芸能社の社長だった柵木眞さんは、ナイツの漫才はテレビよりも舞台に向いていると考えて、浅草行きを命じた。漫才協会に入れて、浅草で修業をさせることにしたのだ。

 同じくマセキ芸能社に所属する内海桂子さんに弟子入りするという形でナイツは浅草演芸界の門を叩き、浅草の東洋館という演芸場に毎日通い詰めることになった。

 ナイツが入った頃の浅草は完全に時代に取り残された場所になっていた。演芸場の客席は連日ガラガラだった。彼らはそこで師匠の世話をしたり、演芸場の前で呼び込みをしたりしながら、舞台に立って漫才の腕を磨いた。

 普通の若手芸人が若い女性客中心のお笑いライブで黄色い歓声を浴びている中で、ナイツは日の当たらない道を歩んでいた。だが、ナイツはその環境でも腐ることなく、コツコツと地味な努力を続けていた。

 2001年に始まった漫才日本一を決める『M-1グランプリ』では、総じて関西芸人が好成績を残すことが続いていたのだが、その中で、ナイツはコンスタントに上位に食い込んでいた数少ない非関西芸人である。ナイツは、2008年から2010年まで3年連続で決勝に進出。2008年には3位という結果を残した。


トップにもどる dot.オリジナル記事一覧

続きを読む

おすすめの記事おすすめの記事
関連記事関連記事

あわせて読みたい あわせて読みたい