――なぜ「健康は善」という価値観が自明になったのでしょうか。

 それは非常に広くて深い問題ですので、簡単にはお答えできません。ただ一つ重要な点は、数十年単位の長いスパンで、伝統的な宗教や地域コミュニティーが崩壊したことです。その結果、人々の価値観が多様に分裂していった。でも健康がいいという価値観には多くの人が同意した。相対的にこの価値観が強くなり、地滑り的に支配的になった。文句を言う人も少なくなり、いつの間にか強制的になった。それは人々を支配するのに非常に都合のよい原理だったので、政治家たちが利用していった。

 自分でもきわめて乱暴な要約だと思いますが、そのような枠組みを仮に当てはめてみることで見えてくるものがいろいろあります。

 たとえば「予防することで医療費を削減しよう」という意見もありますが、そもそも国民が国家予算を心配するというのは逆ではないかと思います。フランスの哲学者ミシェル・フーコー的にいえば、全体のために個人の生活を犠牲にしようと訓育・規律化されている状況です。

――新刊『健康禍』の最後では、「自分の健康を管理する権利を手放すという自由」について批判的に紹介されています。どういうことでしょうか。

 たとえば2018年から政府によって啓発が進められている「人生会議(患者と家族、医療者などが繰り返し話し合い、本人の治療の意思決定を支援するプロセス)」がそれにあたります。これを一般にいいものとして広めることに私は反対です。

 本人が大事にしていること、望むことを話して家族や医療者にくんでもらうことは、人生会議という名前をつけるまでもなく、仲良くしようという話でしかないはずです。現実に意味されているのは、たとえば人工呼吸器を着けるかどうかなど本人が意思表示できない重篤な状態のときに、家族が代理で決定することを正当化したいという思惑です。

 もちろん、あらかじめ患者とコミュニケーションすることは大事です。しかし制度化・手続き化してしまうと、たとえば「あの人は安楽死したいと言っていました」というだけで容認されてしまう危険をはらんでいる。臓器移植の議論でも懸念されていることですが、はっきりしない状況で、周りの人の意見によって生死が決まってしまう。

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自分の健康を管理する権利は自分のもの