しかし、恋多き男と風俗好きな男とでは、世間のイメージが違う。風俗も商売である以上、サービスを提供する側とされる側とは対等のはずなのだが、こと「性の商品化」となると、別の話も出てくる。貧困事情によっては、風俗で働く女性が搾取されることがままあり、客の男性はそれを金銭で支配しようとする者として嫌悪される、そんな見方も存在するのである。

 つまり、岡村と志村は「ひとりの異性と安定した関係を継続しない」ところは同じでも、スタンスや世間にとってのイメージが異なるわけだ。

 また、似て非なるところはそこだけではない。志村は岡村にこんなアドバイスをしていた。

「おまえはコントをやらないからキャラができないんだ」
「作り込んだ笑いをしなさいよ」

 生涯にわたってコントを作り続けた志村に対し、岡村は途中からコントをほとんどやらなくなった。コントをやるような番組が減り、実力のある芸人はMC中心に移行するというテレビ界の流れに合わせたともいえるが、自分を尊敬し、似たところもある岡村の変化が、志村には物足りなかったのだろう。

 しかも、この違いは別の意味で深い。作り込んだキャラクターコントは、その芸人の「素」の印象をも変えるからだ。たとえば、志村の「バカ殿」や「変なおじさん」にハマればハマるほど、ファンはこんな気持ちになる。…プライベートではさすがにあれほどではないだろうけど、やっぱり面白くてエッチなはず、むしろそうあってほしい…。これにより、ちょっと羽目をはずした生き方も受け入れられやすくなるのだ。

 同じことが、ビートたけしにもいえる。タケちゃんマンだったり、犯罪者の役だったりが魅力的なほど、現実でも破天荒で豪快な生き方が期待されるようになるのである。

 これに対し、岡村にはそこまで作り込んだメジャーなキャラがない。そのかわり、素の性格が目立ちすぎるきらいがある。ダンス企画の「オカザイル」からはストイックな努力家ぶり、婚活企画では結婚したいけどできないオクテぶりというように。ともにこれまでは好感度につながってきたが、素のまじめさが愛されることはある意味怖い。今回のようなことがあると、ギャップからの幻滅が一気に広がるからだ。

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決定的な差は「下積み時代」の経験