ちなみに、彼が生まれて初めて作ったのは「高校3年生~リミックス~」という曲だ。当時、サッカー選手を目指していたものの挫折し、もうひとつの特技でもあった音楽に向き合おうとして、母に歌ってもらうために作ったという。が、母に「あなたが歌ったほうがいい」と言われ、これが路上でのライブ活動、ひいてはプロデビューにつながった。

 森山の原点というべき曲が卒業ソングで、そのタイトルが卒業ソングの元祖というべき「高校三年生」を意識したかのようなものであることは、運命的ですらある。また、彼は37歳のとき「中学生時代の放課後の終わらない感じ」で音楽に取り組みたいと語っていて、そのこだわりは尾崎豊あたりにも通じるものだ。青春を歌うのにはうってつけの精神性といえる。

 とはいえ「さくら(独唱)」自体は必ずしも、卒業がテーマではなかった。友人の結婚を機に作られ、デビューアルバムに収録された際はアレンジもバンドスタイルだった。それがピアノ伴奏のみの独唱スタイルでシングルカットされるにあたり、卒業ソングとしての意味合いが強まる。カップリングには宮城県の女子高生たちがコーラスをつけた「さくら(合唱)」が収録された。

 これにより、ひとりでもみんなでも歌えるという体裁が整い「蛍の光」的要素も兼ね備えることになったわけだ。青春の儚さや息苦しさ、甘酸っぱさを感じさせるこの曲はむしろ、最初から卒業ソングだったような魅力をたたえていた。

 その発売日は「世界に一つだけの花」(SMAP)と同じ03年3月5日。ただし、こちらは初回プレス1200枚といういたって地味なスタートだった。それでも、9週かかってオリコンのトップに立ち、年間4位の大ヒット曲となる。

■「サライ」で桜を歌った谷村新司

 とまあ、ふさわしい人がふさわしい曲をふさわしい時代に歌うことで成功したさくら革命。そこには種をまいた先人たちの功績も見逃せない。前出の阿久は愛国的な詞を書くことについて「谷村君にしてもさだ君にしろね、ぼくらより平気みたいですね」とも語ったが、じつは彼のひと世代あとに生まれた谷村新司とさだまさしこそ、さくら革命の先駆的な功労者なのだ。

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さだまさしが山口百恵に書いた「秋桜」