最後かもしれない演技をスタートする直前に、スケート靴の紐がほどけるアクシデントが起こった。フィギュアスケートの競技会では、名前をコールされてから30秒以内にスタート位置につかないと減点されるルールがある。しかし、小塚さんを小学生の頃から指導する佐藤信夫コーチが口にしたのは「時間がない」という言葉ではなかった。

「落ち着きなさい。遅れてもいいから」

 小塚さんが引退を決めたのはフリーの演技を終えた時で、佐藤コーチにその意志を伝えたのも演技が終わってからだ。全日本前には、二人の間に引退についての話はなかった。ただ、引退を発表した後、小塚さんは次のように振り返っている。

「『遅れてもいいから』ということは、やっぱり点数に響くから、普通だったら言わないんですよ。でも、『落ち着きなさい』って……後から考えたら、信夫先生は多分最後だって感じていたから『ちゃんとした演技で終わらせてあげたい』と思ったのかな」

 幼い頃から指導し、バンクーバー五輪を共に戦った愛弟子の最後となる演技において佐藤コーチが大事にしたのは、点数ではなく達成感だったのだろう。コーチの思いはフェンスを越え、演技するスケーターの背中を押している。(文・沢田聡子)

●沢田聡子/1972年、埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社に勤めながら、97年にライターとして活動を始める。2004年からフリー。シンクロナイズドスイミング、アイスホッケー、フィギュアスケート、ヨガ等を取材して雑誌やウェブに寄稿している。「SATOKO’s arena」