※写真はイメージです(写真/getty images)
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 平成の30年間で日本の大学は様変わりした。大学の数は280校も増え、大学進学率は5割を超えた。平成前半の大学事情について、「大学ランキング2020」(朝日新聞出版)から抜粋して紹介する。

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 平成時代はバブルとともに幕が開けた。

 1989(平成元)年、日経平均株価は史上最高の3万8915円をつけ、世の中は浮かれていた。それは大学も同じだった。

 この年、平成最初の大学入試で、早稲田大は一般入試志願者約16万人を集めた。この数字はいまだに破られていない。しかもセンター試験利用入試や全学統一入試がない時代である。当時、1人で10校をかけ持ち受験することはめずらしくなかった。どの大学も浮かれた雰囲気が漂っていた。大学はレジャーランドと呼ばれ、それほど授業に出席しなくても「楽勝科目」で卒業できる。そんなゆるさ、のんびり感が漂う時代だった。
 
 しかし、このような状況に大学も文部省(現・文部科学省)も危機感を抱いていた。学生は勉強せず、「授業がつまらない」と言う。教員も象牙の塔にこもり熱心に教えない。このままではダメになってしまう。大学の制度を根本的に変えなければならない。文部省は大学改革を進めることを宣言した。それが、平成に入ってまもない1991年に実施された大学設置基準の大綱化である。

 大綱化とは、緩和という意味合いを持っている。それまで文部省は、大学教育の課程を一般教育、外国語、保健体育、専門教育に区分けしてそのなかで細かく定めていたが、大綱化によって、こうした区分けによる科目の縛りを緩くした。大学はこれを、規制から自由へ、管理から放任へと受け止め、新しいカリキュラムを作った。たとえば、第二外国語、体育実習を必修からはずす、1年次から専門科目を学ぶ、などである。そして、多
くの大学が教養部(課程)を廃止した。

●大学新設ラッシュを迎え、2000年には28校誕生

 文部省の縛りが緩くなり、大学は時代に合わせた科目を教えられるようになった。それに伴って、学部名称も多様化する。従来の「法」「経済」「工」から、「国際」「政策」「環境」「情報」「人間」といった言葉が並ぶようになった。

 平成前期の10年間、1990年代は、バブル崩壊による倒産や企業の統廃合が相次ぎ、暗い世相が続く。しかし、大学は違った。拡大路線を突っ走った。大学は1995 年に13 校、98 年に17 校、2000 年には28校が誕生している。入学者数は1989年に47万6786人だったのが、1998年には59万743人となった。

 これにはいくつかの背景がある。まず、社会構造の変化に伴い、企業が高卒より大卒を求めるようになった。大卒者のほうが好待遇で、生涯賃金が勝るという現実もあった。また、18歳人口が1992年の約205万人をピークに減り続けるなか、多くの大学は学部の増設などで規模を拡大し、数の論理で学生を集めようとした。

 女性の意識や生き方が変わったことも大きい。1986年の男女雇用機会均等法施行、1990年代後半の男女共同参画社会への機運の高まりなどで、女性がさまざまな分野で活躍できる社会づくりが浸透し、女子の大学進学率が高まっていく。高校卒業後、専門学校や短期大学に進学、あるいは就職していた女子層が大学に進むようになる。女子の大学進学率は
1989年に14.7%だったのが、1998年には27.5%となった。

 一方、学生の気質も変わりつつあった。1999年、『分数ができない大学生』という本が出版され、大学生の学力低下が大きな問題になった。大学進学率は上がっている一方で、「ゆとり教育」の功罪が問われた。高校までの課程を十分に理解していない学生が現れ、大学で補習教育が行われるようになった。

 2000年には、予備校が「Fランク大学」を公表。入試難易度がつかない「ボーダーフリー」の大学は、「だれでも入学できる」と受け止められ、大きな波紋を呼んだ。

後編「バブルが崩壊しても、大学は拡大路線を突っ走った」へ続く。

(文/教育ジャーナリスト・小林哲夫