私もその場で同級生の話を聞きましたが、彼女の号泣によって裁判所が静まり返ったのをよく覚えています。

 しかし、同級生の証言などを受けても東京高裁は「自殺につながるいじめはなかった」(東京高裁/2013年)と判決を下したのです。

 あらためて伝えたいのは、死んでも子どもの気持ちに耳を傾けないのが司法や学校という組織だということです。

「死ねば苦しかった経験に周囲が耳を傾けてくれる」という誤解は報道によって与えがちです。そのため、松本人志さんのツイートには一理あると思っています。

 しかしそれでも、このツイートは、自殺を個人の問題、とりわけ個人の「気概」で自殺を回避できるような印象を与えてしまいます。自殺は個人ではなく社会の問題です。自殺にまで追い詰められた背景や環境に目を向けなければなりません。

 松本さんが主張した「死んだら負け」というのは、おそらく自殺した人もわかっていたと思います。「死んでもしょうがない」という理屈はわかっていても、苦しさがコップからあふれ出すように亡くなってしまう、と言われています。

 本人の努力や気概、気の持ちようで自殺は回避できません。本人がSOSを挙げられなかったのはなぜなのか。学校、家庭、本人に関わってきた第三者たちは、なぜリスクに気がつけなかったのか。本人だけではどうすることもできない環境に目を向けるべきです。

 環境や背景に目が向けば、自殺した本人だけでなく周囲も追い詰められていた事実が明らかになるはずです。なにかしらの暴力や重圧が本人を含む周囲一帯にのしかかっていて、その重圧を一番受けていたのが自殺した本人です。

 せめて自殺を機にこうした「苦しさの連鎖」に気が付き改善していく必要があると思うのです。

 その意味でも、自殺が個人の問題にされてしまうようなツイートには賛同できません。

 しかしこの機会にたくさんの議論が起きてほしいという思いもあります。最後に以前、『不登校新聞』の取材でシナリオライター・虚淵玄さんが語ってくれた話を紹介して終わりにしたいと思います。

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傍から見れば愚かに見えても…