高校野球の場合、降雨コールドゲームは7回完了、または後攻チームがリードした7回表終了の時点で成立するが、同点のまま7回が完了していないのに、なぜか試合成立となったのが、1998年の如水館vs専大北上(1回戦)。

 1点を追う如水館は7回、先頭の竹玄圭吾が四球で出塁したあと、二盗を決め、送りバントと3番・松浦孝祐の右犠飛で6対6の同点に追いついた。

 ところが、4番・徳田乾が四球を選び、2死一塁となったところで、雨が激しくなり、6回表に続いて2度目の中断。47分後、「甲子園に雷が落ちてもおかしくない。観客の安全を考慮しました」(日本高野連・田名部和裕事務局長)という理由で降雨コールド引き分け再試合が宣告された。

 規定の7回が完了していないのに、なぜ試合が成立したか、疑問に思ったファンも多かったはずだ。

 実は、公認野球規則4.10「5回裏(高校野球は7回裏)の攻撃中にホームチーム(後攻チーム)が得点して、ビジティングチーム(先攻チーム)の得点と等しくなっているときに打ち切りを命じられた試合」に則ったもの。もし、如水館が7対6と逆転に成功していれば、これまた7回2死打ち切りで試合成立だった。

 第1回大会準決勝の京都二中(現鳥羽)vs和歌山中(現桐蔭)以来83年ぶり2度目の降雨コールド引き分けの珍事に、如水館・迫田穆成監督は「ノーゲームと思ってました。(5回の)松浦のホームランも記録に残ってよかった」と安堵の笑み。

 専大北上・矢田利勝監督も「選手はやりたかったようだが、相手が裏の攻撃だし、私は(再試合で)良かった」とホッとした様子だった。

 翌日の再試合では、如水館が10対5で勝利。1年生ながら専大北上の5番を打った畠山和洋(現ヤクルト)は、初戦敗退なのにこの年甲子園で2試合戦ったことになる。

 降雨コールド引き分けから11年後の2009年、何の因果か、如水館はまたしても気まぐれな雨に振り回されることになる。

 1回戦の高知戦は3回裏まで2対0とリードも、降雨ノーゲーム。初回の先制タイムリーが幻となった宮本浩平捕手は「(先発)幸野(宜途)の調子が良かったので、やりたかった」と残念がった。

 翌日の再試合も3連打で同点に追いついた直後の2死満塁、白岩稔真の走者一掃の三塁打で6対3と勝ち越したが、5回表、高知に2点を返され、なおも1死一塁という場面で雨が激しくなり、前代未聞の2日連続ノーゲームとなった。

 98年の専大北上戦も含めて通算3度目の中断で、文字どおり、水を差される形になった選手の一人は「チーム名に『水』が入っているからでしょうかね」と言って笑った。

 そして、“3度目の正直”となった翌日の再々試合は、12長短打で9点を挙げた高知に軍配(9対3)。リードしていた試合が2度とも雨で流れ、史上初の3試合目で初戦敗退を喫した如水館は不運としか言いようがなく、「3連戦“2勝”1敗」の見出しで報じるスポーツ紙もあった。

「(ノーゲーム続きで)天気予報ばかり見ていた」という有山卓主将は、前年夏に大阪桐蔭の捕手として甲子園に出場した兄とお揃いで、降雨ノーゲームと幻のタイムリー(兄は本塁打)を体験するという運命のいたずらも重なり、「甲子園はちょっとのミスや油断で大量点が入る怖いところ。振り返れば短い3日間だった」と肩を落としていた。

●プロフィール
久保田龍雄
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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