確かに日本はここまでひどくはない。しかし、正義は常にまかり通るわけではない。もちろん悪を奨励しているわけではないが、最後は正義が常に勝つというナイーブな考えも奨励しない。

 洋の東西を問わず、スーパーヒーローがフィクションの世界であれだけ求められるのは、現実にそういう「スカッとする」ものがないことの裏返しだ。また、正義は人の数ほどある。その正義を完璧に数値化して公平に判断するのは不可能だ。人生は不条理だと思ったほうがいい。そもそも“条理”は人間が考えた勝手な幻想ともいえる。あなたの思う通りに世の中はできていないのだ。神や仏はいるかどうかわからないが、そういう絶対的な存在が常に条理にかなった鉄槌を下してくれるわけではなさそうだ。

 世の不条理を受け入れ、まかり通らないのを百も承知で正義とともに殉(じゅん)じる覚悟なら、それはそれでいい。しかし、そこまでの覚悟がないなら、善悪を最上位において、正義感を世の中にむやみやたらに要求することは避けたほうがいい。正義感から他者と無駄な諍いをすることはもってのほかだ。なぜなら、相手が勝つ場合が結構あるからだ。

■自信にあふれる

 いろんな意味での自信である。自分が正しいという自信。相手を論破できるという自信。相手に権力闘争で勝つ自信。相手に成果で勝つ自信。根拠のない自信もあれば、実績に基づく根拠ある自信もあろう。

 何事もカラ元気であっても自信を持って取り組むべきだと思うが、自信家が相手を論破しようとするときほど、相手から見て屈辱的なことはない。私は金融庁担当の政務官や自民党の財金部会の副部会長や国会の財金委員会の理事をやっていた頃、金融界の人たちとの意見交換の場をたくさんもうけていた。金融界の実力者は学生時代からエリートコースをそのまま歩んできたような人が多い。腹の底では政治家や官僚を馬鹿にしている人が多いのが、鈍い私でも感じられた。「官僚はまだしも政治家なんて経済も金融も何も知らないだろ」という感じで、意見交換でも自信満々に国会や与党の法案や政策を諭(さと)そうとする人が多かったのだ。

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