松坂世代の「怪物スラッガー」も…プロで輝けなかった高校野球のスターたち【野手編】 (3/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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松坂世代の「怪物スラッガー」も…プロで輝けなかった高校野球のスターたち【野手編】

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右中間に3点本塁打を放つ古木克明(横浜時代)=2005年撮影 (c)朝日新聞社

右中間に3点本塁打を放つ古木克明(横浜時代)=2005年撮影 (c)朝日新聞社

右翼ラッキーゾーンに先制2ランを打ち込む萩原誠(大阪桐蔭時代)=1991年撮影 (c)朝日新聞社

右翼ラッキーゾーンに先制2ランを打ち込む萩原誠(大阪桐蔭時代)=1991年撮影 (c)朝日新聞社

 2年生時から甲子園に出場して高校日本代表にも選出。3年生となった1998年夏の甲子園ではベスト4まで勝ち上がった。同年秋、松坂大輔の外れ1位として横浜に入団。プロ4年目の2003年に1軍で125試合に出場して22本塁打を放ったが、打率.208で131三振、リーグ最多の20失策を記録するなど穴の多さが目立ち、持ち前の長打力を活かしきれないまま2007年オフにオリックスにトレードされ、2009年を最後に引退。その後、格闘家へ転身した後、再び野球界復帰を目指してトライアウトに参加し、米独立リーグのハワイ・スターズで1年間プレー。2014年1月に復興支援活動を伴う一般社団法人スポーツFプロジェクトを設立するなど、活動の幅を広げている。

 同じく1998年、夏の甲子園での横浜対PL学園の伝説の一戦で松坂から4安打を放ったのが、田中一徳(PL学園)だった。

 当時は高校2年生。身長165センチながら類まれな俊足ぶりで注目を浴び、3年生の秋に横浜からドラフト1位指名を受けた。プロでは1年目に初ヒットを記録し、3年目の2002年には112試合に出場して打率.256を記録したが、その後はライバルとの定位置争いに敗れ、期待されたスピードも盗塁成功率の低さを克服できず、2006年オフに戦力外通告を受けた。その後、米独立リーグで2年間プレーして引退。引退後は指導者の道を目指し、拓大紅陵高校のコーチを経て、日本経済大学でもコーチとして野球に携わっている。

 そのほか、まだ現役ではあるが、2004年の甲子園で計5本塁打(春2本、夏3本)を放って春の優勝、夏の準優勝に貢献した鵜久森淳志(済美)は、入団した日本ハムでは在籍10年で6本塁打のみ。戦力外の後に加入したヤクルトでは代打の切り札として存在感を見せているが、甲子園での輝きと比べると物足りない。

 同じく、3年夏にエースとしてマウンドに立つと同時に打率.522、12打点と大暴れして全国制覇を成し遂げた堂林翔太(中京大中京)も、プロ3年目の2012年に144試合に出場して14本塁打を放ったが、4年目以降は下降線を辿っている。まだ26歳ではあるが、いつまでもチャンスが残されているわけではない。

 甲子園での活躍は大きな財産になる。だが、野球人生はその後も続く。「あいつは早熟だった」と言われないように、甲子園での経験を糧にプロ舞台で活躍してもらいたい。


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