怨霊封じ?秘仏の祟り? 法隆寺の謎に肉薄した高田良信長老とは 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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怨霊封じ?秘仏の祟り? 法隆寺の謎に肉薄した高田良信長老とは

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小滝ちひろdot.#朝日新聞出版の本#読書

法話より法隆寺史を説き続けた高田良信さん (c)朝日新聞社

法話より法隆寺史を説き続けた高田良信さん (c)朝日新聞社

高田良信/1941年生まれ。12歳で佐伯良謙・法隆寺住職の徒弟に。執事長や副住職などを経て95年から3年半、同寺の住職をつとめ長老に。「法隆寺昭和資財帳調査」を実施、飛鳥時代の国宝・百済観音像を安置する百済観音堂の新築に奔走。『法隆寺の謎』『法隆寺学のススメ』など著書多数 (c)朝日新聞社

高田良信/1941年生まれ。12歳で佐伯良謙・法隆寺住職の徒弟に。執事長や副住職などを経て95年から3年半、同寺の住職をつとめ長老に。「法隆寺昭和資財帳調査」を実施、飛鳥時代の国宝・百済観音像を安置する百済観音堂の新築に奔走。『法隆寺の謎』『法隆寺学のススメ』など著書多数 (c)朝日新聞社

高田長老の法隆寺いま昔(朝日選書)

高田良信著/小滝ちひろ編集

978-4022630636

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 お坊さんはお葬式でおつとめをし、ありがたい法話をしてくれる人。まして、1400年続く奈良・法隆寺の長老ならばなおさらだろう―― なんていうのは大間違い。

 この4月に76歳で亡くなった高田良信さんは同寺の住職・管長を務めた方だが、ありがたい仏教のお話を語ることはほとんどなかった。もともと法隆寺などの奈良仏教は祈祷(きとう)が第一で、檀家はなく、お葬式にはかかわらないのだ。

 高田さんは、法隆寺の歴史を徹底的に調べ上げ、古代史や考古学の学者たちとの論争にも積極的に打って出た。「法隆寺学」を提唱し、さまざまな謎を解き明かそうとした。

 そのひとつが、米国の美術史家フェノロサらが夢殿を開扉したところ、秘仏本尊救世観音像は白布でぐるぐる巻きにされていた、という謎の真相に迫ったことだ。明治17(1884)年、「仏罰があたる」という寺僧らの抵抗を振り切るように開かれたというが本当だろうか。寺内の記録を探すと、「フェノロサらが来た」という記述は見つかるが、夢殿を開いた証拠が出てこない。「それより前、明治5(1872)年の文部省による調査の方が先だったのではないか」と、高田さんは疑義を唱えた。

 また、「(夢殿の本尊、救世観音像は)200ヤード(約183メートル)の白布で覆われていた」とフェノロサは書いているけれど、その布が法隆寺に残っていないのはおかしくないか、と。

 こんなふうに、記録にこだわる高田さんの姿勢は、親から離れて昭和28(1953)年に12歳で法隆寺の「小僧」となった時に始まった。

 当時法隆寺の僧侶は広い境内にたった5人だけ。境内のあちこちには古瓦が埋もれていて、遊び相手もほとんどいない小僧さんは厳しい修行の合間の楽しみにそれを拾い集めるようになった。また、いろんな仏堂に残されたお坊さんたちの位牌の整理にも手を染めた。

 法隆寺といえば、奈良観光の定番、聖徳太子ゆかりの寺というイメージはあっても、今どんな人が暮らし、どうやって古寺の歴史を担っているのかはあまり知られていない。

 境内の中をこつこつと調べ続けていくうち、「正史」だけではわからない、生の法隆寺史を、高田さんは次第に明らかにしていく。そして、高田さんの「法隆寺愛」も育まれていった。

 高田さんは生前、俳優である長女の高田聖子さんに「最初から自分がやりたいことだけをやることが幸せではない」と語っていたという。大人ばかりの法隆寺に弟子入りした少年は、自由気ままとはいかない修行生活の中で、お寺の記録を調べるという地味な取り組みを人生の軸に変えていったのだった。

 高田さんが亡くなる1年半ほど前から、朝日新聞デジタルで連載されたインタビューは、合計約30時間にも及ぶ長さとなった。インタビューは再構成され、『高田長老の法隆寺いま昔』という一冊の本になっている。なかでも高校受験に失敗したとき、師匠から「人間、一生勉強や。くよくよせんと死ぬまで勉強せえ!」の一言で立ち直ったというエピソードは秀逸。その記録から、「生の法隆寺」が見えてくるに違いない。(小滝ちひろ)


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