メニエール病では幻聴やめまい、耐え難い耳鳴りのために自らの耳を鼓膜が破れるまでたたく例があり、ゴッホの耳切りもその延長ではないかとする説もある。ただ、メニエール病では切断した耳を送るという行動は説明できない。

 様々な精神神経症状を説明する場合、梅毒説は好都合である。実際、ゴッホが同時代のロートレックやゴーギャン同様、娼婦との交渉を好んでいたこと、17~19世紀フランスでは梅毒が猛威を振るっていたことなどから感染していた可能性は高い。だが晩年まで彼の外観にゴム腫やバラ疹などの皮膚所見は見られない。

 もう一つ、アルコールや薬物中毒の可能性もある。ゴッホや同時代の芸術家が愛飲したアブサンは、ニガヨモギのテルペノイド、ツヨンを含み、幻覚作用や錯乱作用があるとされる。しかし毎晩泥酔する画家は数多いて、その中でもゴッホの芸術的境地は異彩を放つ。もっとも、最近ではよほど大量に摂取しなければツヨン自体にそれほどの毒性はないとされている。

■黄色が最も美しい

 英国のアロンソは、ゴッホの主治医だったガッシュ博士がジギタリス治療を得意としており、ゴッホは適応外かつ過剰な投与を受けたのではないかという仮説を提唱している。視野が黄色く見える「黄視症」はジギタリス中毒の教科書的な症状の一つである。ゴッホがオランダやパリで過ごしていた時の絵は暗い色調であるのに対し、南仏に移って突然画風が変わったのは、南欧の夏の光や日本の浮世絵の影響に加えて、ガッシュ博士の治療が始まったためであるという。面白いことにこの時期のゴッホによるルーベンスの模写は、原画に比べて著しく黄色がかっている。しかしゴッホ自身、弟のテオに宛てた手紙に「黄色が最も美しい」と記す。単なる黄色好きかもしれない。

 ゴッホ没後100年に、生前のゴッホを知っていた長寿記録者のジャンヌ・カルマン夫人(当時113歳)が、「汚い格好をした変な人だった」と証言している。ゴッホが変わり者で周りから受け入れられなかったことは間違いないが、彼の異常行動は芸術上の表現と分けて考えるべきだろう。

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早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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