――残っていないのですか?

 そうなんです。当時大奥では、将軍が閨(ねや)に入る際には「御伽坊主(おとぎぼうず)」という将軍お付きの雑用係が次の間に控え、いつ誰とやったのか、その際に射精したかどうかまでチェックしていた。お世継ぎ問題に関わってくるから必ず記録したはずなのに、それがない。時代劇などの大奥は女同士の嫉妬やら政治介入やらばかりが描かれますが、そもそも大奥の存在意義は「生殖」「出産」「乳幼児の子育て」の場であること。このキモの部分の記録が残っていない。とても不思議なことです。

 ただ、もし記録があったとしても、それが情交の記録かどうかの判別は難しいかもしれない。というのも、性愛に関する記録の多くは符号や隠語で記されているから。たとえば前述の岩松満次郎俊純の日記には「三本市幡」「四本弐幡」という表記があります。「三本」「四本」は二人の女を指しているようで、「市」は「一」、「幡」は「番」の意。つまり、「三本市幡」は「三本(の女)と1回」、「四本弐幡」は「四本(の女)と2回と、セックスの相手と回数を表している。ある武士が書いた梅の絵も、梅の花1つ=性行為1回という意味だった。大奥の記録が残っていたとしても、おそらくそうした符号や符丁が使われていたでしょう。「なぜ公文書に謎の符合が?」と研究者が疑問を持たなければ、解明されないかもしれませんね。

――江戸、明治期は「男色」も盛んだったとか?

 男色自体は古くからありましたが、江戸初期には武士同士の男色である「衆道(しゅどう)」が広まりました。戦国時代は、戦の経験がない少年に色々なことを教える「兄貴分」が必要で、この義兄弟関係に性的な関係が伴った。少年の親も経験のある優れた兄貴分が息子についてくれることを望み、家族公認、家族ぐるみの関係だった。つまり、戦が頻繁に起きた時代に家を守るセーフティーネットでもあったのです。であるがゆえに、天下泰平の世になるとともに、武士同士の「衆道」は下火になっていきました。

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