ご覧のように、主人公と免色は鏡像関係にある。どちらも、(1)突然女性に去られ、(2)その女性はすぐに別な男性に鞍替えし、(3)しかし他の男性のもとにいる元パートナーが産んだ(産む)娘を自分の子ではと思い、その子の養父に積極的になろうとする。男性のここまで能動的で前のめりの親願望が、村上作品で描かれたのはさすがに初めてではないか。

 村上文学のなかで、男は「親になること」を遠ざけ/遠ざけられてきたが、作者自身の加齢が関係しているのだろうか、その禁制は段階的に解かれてきたように思う。遡れば、代父のコンセプトは『ダンス、ダンス、ダンス』(1988年)における十三歳の霊力者「ユキ」との関係に、すでにうっすら萌していた。さらに、「蜂蜜パイ」(2000年)では、離婚した親友から、俺の娘の親になってくれと説得され、主人公はおずおずと義父の立場を引き受けるのだ。そして同作からほぼ十年を経た『1Q84』で、主人公は(身代わりを通じた)性交で宿った子をわが子として受け入れ、さらに『騎士団長殺し』では、こちらから押しかけるようにして父になろうとする。男たちのペアレントフッドへの能動性が次第に高まっているのは興味深い。

 本作の男性ふたりの少女まりえに対する感情には、ペドフィルめいた、近親相姦的アタッチメントが絡んでいるのでややこしい。免色にとってまりえは「実の娘」のイデアだが、「私」にとってのまりえは、彼女と同じ年頃に急死した妹「小径」(本作の重要モチーフである通路の記号をもつ)の分身である。村上が新訳した『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の妹フィービーと亡くなった弟アリーが合成されて転写されたような存在だ。「私」は妹の死の精神的後遺症を負い、妹の膨らみのない胸にとり憑かれて、女性のおっぱいに強迫観念(?)を抱えることになる。のちに妻となるユズにも妹の面影を見て、猛烈なひと目惚れをした。村上作品の少女たちは、柳田國男が「妹(いも)の力」と呼んだ若い処女特有の霊的な超常能力を具えている。

 本作で「根源的な悪」「邪悪なる父」「二重メタファー」などと呼び換えられるものは、明らかに主人公のもつ破壊的でどす黒い暗部を表している。その邪悪さと闇に対峙し、最終的には、自らの悪を具現化した男(白いスバルに乗っている)の肖像を描き、「騎士団長殺し」を行うことで、悪を封印あるいは乗り越えたように見える。とはいえ、ラストの東日本大震災のくだりで、この白スバル男がちらっと映るのである。ホラー映画で、封じこめたはずの怪物の声が地底から響くように。

 ここで終わりとはどうも思えない。聖なる「妹の力」と悪しき力の対決が描かれていないし、第2部でわずかに言及されるカルト教団の背後には、意外な人物がいるのではないか。主人公の鏡でもある免色の職業や正体もあまりに不明だ。「騎士団長殺し」の絵の後ろに、ナチス支配や南京入城という歴史的背景幕をおいた以上、そこから現代の民族対立とテロリズム、ナショナリズムの問題などにつながる展開もほしいところ。

 作者は本作の1部2部で村上春樹アイテム総棚卸しを行い、これまでのレパートリーは全て封じ手にして新生するつもりなのではないか? 『騎士団長殺し』とは「村上春樹殺し」なのかもしれない。

※「小説トリッパー」2017年春季号掲載