彼の言う「ちゃんと」とは、「英語ではなく日本語で話せ」という意味でした。

 これがもし海外勤務などで外国で暮らしていたら、英語を話さないわけにはいかないし、保育園でも英語に触れるので、事情は違っていたでしょう。望み通り、バイリンガルに育ったかもしれません。

 でも、わが家の場合はそうではありませんでした。そして、そういう私の「下心」を見抜くかのように、子どもは、「ちゃんとしゃべって!」という言葉で、日本語で話すように大人たちに要求したのです。

 私は、そちらのほうがすばらしいことのように思えたのです。しっかりコミュニケーションをしたい、自分が良くわかる言葉を、自分で選んでしゃべりたい。そして親たちにも、そう話すように要求した。

 英語の発音がよくなるとか、LとRが聞き分けられるとか、日常の挨拶ができるとか。そういう表面的な話ではなくて、言葉というものがとても大切な根源的なものであることに気づかせてもらえたと思っています。会話をするのは生きていく上で大切な要素だから、下心を取っ払って、しっかり話せと、子どもに教えられました。

 私はかつて「言語の脳科学」という研究プロジェクトに参加していました。そこで、言語学研究の第一人者である大津由紀雄先生から、いろいろとご指導いただきました。

 大津先生は、小学校で英語を教えることについてずっと反対されていました。その理由は、言語の基礎は、根幹は日本語でも他の言語でも共通の部分が多いので、まずは母語をしっかりと身につけて「言語の力」を育てる。それがあれば、他の言語もしっかりと学んでいけるということを、脳の仕組みや認知心理学の知見から確信しておられたからです。

 外国語の教育方法をきちんと身につけていない人、たとえば小学校の先生が、付け焼刃で英語を教えさせられることには、多くの問題があると思います。たとえば、英語を教える時間をとるために、国語を学ぶ時間が減ってしまうこと1つとっても、明らかに問題だと思います。

田中茂樹(たなか・しげき)
 1965年東京都生まれ。医師・臨床心理士。文学博士(心理学)。共働きで4児を育てる父親。京都大学医学部卒業。信州大学医学部附属病院産婦人科での研修を経て、京都大学大学院文学研究科博士後期課程(心理学専攻)修了。2010年3月まで仁愛大学人間学部心理学科教授、同大学附属心理臨床センター主任。

 現在は、奈良県・佐保川診療所にて、プライマリ・ケア医として地域医療に従事する。病院と大学の心理臨床センターで17年間、不登校や引きこもり、摂食障害やリストカットなど子どもの問題について親の相談を受け続けている。これまで約5000件の親の悩みを解決に導いてきた。著書に『子どもを信じること』(大隅書店)などがある。