自民党は、舛添氏を2001年の参院選に引っ張り出し、比例全国区から出馬させた。結果は160万票近くを獲得しトップ当選。自民党に大きく貢献した。

「森さんはことあるごとに舛添さんに、『あんたは将来の総理候補。自民党の宝だ』と最大限の待遇を約束したと言います。しかし自民党は、選挙で舛添人気を利用しただけで、その後は舛添さんを冷遇します。第一次安倍内閣で入閣こそさせましたが、総裁候補にしようとか、派閥の後継者にしようという声は一切出ず、党内の主流派からは外したままでした。また独断専行が目立ち、執行部に批判的な言動を繰り返す舛添さんに対して、党内では『舛添不要論』さえ囁かれるありさまでした」(前出の自民党都議団幹部)

●森喜朗氏への恨みを持つ舛添氏 オリンピック運営でことごとく対立

 09年の総選挙で自民党は歴史的な大敗を喫して下野。政権担当与党でなくなった自民党に用はないとばかりに、舛添氏は自民党を飛び出し、新党改革の代表となった。

「舛添さんからすると『俺を総理にしてくれるって言っていたのに約束が違う』という思いがありますし、自民党にすれば『自民党が野党の苦しいときに飛び出しやがってふざけるな』という話で、これが両者が対立する根本的な原因です」(前出の公明党幹部)

 ただし14年の都知事選では、自民党は脱原発の細川護熙氏を絶対に勝たせたくなかったことや、候補を擁立する時間がなかったこともあり、舛添氏を支援。舛添氏サイドも自民党の応援が欲しかったため、表面上は一時的に和解した結果、舛添都知事が誕生した。

「自民党にすれば、選挙で支援したんだから、都議会運営には当然協力してくれるものと考えていたようですが、舛添さんの自民党に対する恨みは凄まじく、オリンピック会場の建設計画を中止は、大会組織委員会会長を務める森さんへの復讐とも取れます。オリンピック運営費の無駄を省くなどの政策は、一見合理的に見えますが、その実は森さんが仕切っているオリンピックに水を差すことで、森さんの顔を潰す結果にもなります。要するに国会議員のときはさんざん利用されたけど、都知事になったことで自民党や永田町へのリベンジを果たしているのでしょう」(前出の公明党幹部)

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