ただしこれを実現するには、3カ国の間に今なお根強く残っている歴史認識の問題、そこに端を発する反日感情の問題、それから日米同盟弱体化を狙っているフシすらある中国の軍事的脅威の問題など、課題は山のようにある。

 結局、鳩山の提唱した東アジア共同体構想は、具体化の動きを示す前に鳩山が辞任してしまい、フェードアウトしてしまった。

●なぜ普天間基地は移設できなかったのか?

 そして、その辞任への流れを作る不人気のきっかけになったのが、「普天間飛行場の移設問題」だ。鳩山はマニフェストにこそ書いていなかったものの、自分たち民主党が政権をとったあかつきには、沖縄にある米軍普天間飛行場を「最低でも県外、できれば国外」に移設したい旨を、選挙時発言として行っている。

 もともと普天間飛行場には1990年代半ばから“県内移設案”があり、1996年にはその受け入れ先が「名護市辺野古」に決まっていた。しかし鳩山は、それを県外か国外に移そうという。これがもしうまくいけば、政治主導で初めて沖縄問題に大きく日本の意向を反映させた例になる。成功すれば、アメリカからの自主独立への大いなる第一歩だ。

 ただこの問題は、鳩山の強調する「政治主導」で解決するには、あまりにも大きすぎた。実務面を担っている官僚との協力・根回しもなく「米軍基地の移設」などという巨大な壁に立ち向かうには、鳩山民主党はあまりにも与党として若かったのだ。

 しかも鳩山には、欠けていたものが二つあったように見受けられる。一つはアメリカと対等に交渉するのに必要な“駆け引き材料”、そしてもう一つは、現行安保体制にかわりうる“新しい安全保障政策のビジョン”だ。

 正確に言うと、この二つがつながりを持ったものになれば、アメリカは大いに動揺し、日本の言うことを聞いてくれた可能性が高い。つまり「もしアメリカが普天間基地を県外か国外に移設してくれないなら、日本は今後、中国と手を組むぞ」という“脅し”だ。

 アメリカの腰巾着にすぎない日本が、アメリカを困らせられる脅しがあるとすれば、それだけだ。つまり「本気で中国と組んで新たな安全保障システムをつくるぞ!」というブラフを全身全霊こめてかますことだけが、アメリカを慌てさせ、日米関係を“追従型”から“対等”にできる唯一の切り札だったと思う。

 もちろんそんなこと、本気でやるとは思えない。そんなことをすれば、今まで味方だったアメリカと、今後は険悪でよそよそしい間柄になる。それにそれをやれば、僕らの生活はハリウッド映画やメジャーリーグやMTVやグーグルと縁遠くなり、かわりに『赤いコーリャン』や太極拳や海賊版音楽や百度(バイドゥ)と親しむことになる。ここまでアメリカナイズされた生活に親しんでしまった僕らに、いきなりそんな生活への転換ができるとは思わない。

 でもだからこそ、「本気でそれをするぞ」という覚悟を示すことが、大いなる力になる。その意味でいうと、この移設案を本気で成功させたかったのなら、「東アジア共同体構想」とセットで(しかも両方とも本気で)取り組まなければならなかったことになる。

 というより、もともとこの東アジア共同体構想を聞いたとき、僕は「あ、鳩山政権は中国シフトでいく気なのか」と思ったぐらいだから、やるならやる、やらないならやらないと、いずれにしても本気度を示して行動を起こさないと。それをまさか「東アジア共同体構想を示すだけで、アメリカは動揺するはず」などと思ったのなら、それは見通しが甘すぎだ。アメリカぐらい貫録たっぷりのボスになると、そんな空手形ぐらいでいちいち動揺したりしない。

 結局、鳩山の示した程度のブラフではアメリカは動揺せず、鳩山はその後、移設先に苦慮することになる。その後「腹案がある」と言って出してきた徳之島案も地元自治体にフラれ、最終的には2010年5月、元の「名護市辺野古案」に戻してしまった。

 これにより、国民は鳩山を「できもしない夢物語で県民をその気にさせておきながら、結局状況を引っ掻き回しただけで何も実現できなかった嘘つき」ととらえ、大いに失望した。民主党はこのままでは7月に迫った参院選を戦えないとする声が高まり、鳩山は辞任した。このあたりから、民主党に対する国民の目は厳しくなっていった。

●ピークを過ぎて首相になった男の悲劇――菅直人

 鳩山辞任後、首相の座を引き継いだのは菅直人だった。菅はもともと学生運動・市民運動出身の政治家で、初当選のときは社会民主連合(社民連)に所属していた。その後は1994年に社民連が解散したのを受けて新党さきがけに所属し、そのときに橋本龍太郎の「自社さ連立内閣」で厚生大臣として初入閣して、薬害エイズ問題やO157問題に積極的に取り組む姿勢で名を上げた。

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