ナイル・ロジャースがボウイ、プリンスとの思い出を回想「彼らが世界に与えたもの、俺個人にくれたものは特別」
ナイル・ロジャースがボウイ、プリンスとの思い出を回想「彼らが世界に与えたもの、俺個人にくれたものは特別」

 俺が初めてプリンスと出会ったのは彼がまだ駆け出しの頃で、1981年にニューヨークの14番街にあったパラディアムというナイトクラブでプレイしていた。彼は割としょっちゅうそのクラブで演奏していて、俺たちは何度も語り合ったよ。プリンスと演奏するのは会話をするようで、「なあ、俺はこういうことを考えてるんだ」みたいな感覚だった。

 彼は桁外れの名手で、あれほどの才能を持つ人と演奏するのは最高の気分だった。俺が来ると彼はギターを置いて喜んでピアノの前に座り、俺にギターを演奏させてくれた。「レディース&ジェントルメン、ナイル・ロジャース!彼はマジでファンキーだぜ」と、観客に紹介してくれた。

 ボウイの場合は全く別の体験だった。彼は俺に大きな責任を持たせたからだ。「ナイル、君には君が一番得意なことをやってもらいたいんだ。それはヒットを作ることだ」と、彼は言った。「チャイナ・ガール」のギター・リフを初めて聞かせた時、ものすごく緊張したよ。フックが効いてたからね。バンドには「今日クビになるかもしれないから覚悟しておけ。彼はきっと爆笑するから」って言ってあった。でもボウイは俺を見て「ナイル、ダーリン、素敵じゃないか!」と、言ったんだ。俺は今まで手掛けたどの作品より『レッツ・ダンス』を誇りに思っているかもしれない。今までで一番簡単なレコードだったんだけどね。最初から最後まで17日間しかかからなかったんだ。

 プリンスとデヴィッドは二人とも類い稀な天才で、俺たちとは異なる視点から世界を見ていた。具体的な物や状況について二人と会話をしたけれど、二人は全く違う見方で物事を捉えていた。例えば、ある時プリンスは「ナイル、俺はペイズリー・パークをスウェーデンに移そうと本気で考えてるんだ。女性はきれいだし、みんなメルセデスやBMWとかを運転してるし、踊りが上手いし」と、俺に言った。彼にとっては深刻なことだったんだ。俺は彼がジョークを言っているのか判断しようとして、「勘弁してくれよ、プリンス。そんな軽薄なこと本気で言ってるのか?」って言ったけれど、彼は俺をからかっている訳じゃなかった。

 ボウイの場合、楽曲が持つ意味について徹底的なディスカッションをしていたけれど、「チャイナ・ガール」だけはそれをしなかったんだ。俺はあの曲は“スピードボーリング”、つまりコカインとヘロインを同時にキメることを歌っているのかと思っていた。“チャイナ”はヘロインの一種、“ガール”はコカインの一種を指す言葉だったからね。俺は彼とドラッグについて話すことが気まずかった。どうして薬物を断っている人が“スピードボーリング”の歌を歌いたいのか理解できなかったからだよ。でもあの曲はそういう意味ではなかった。

 俺は今でも『ジギー・スターダスト』(ボウイの1972年のアルバム)をよく聴いてる。あれは実話で、目に見える…まるで映画のようだ。ボウイがすること全てが演劇のようだった。一緒に夕飯を食べていても演劇だった。プリンスは何を使っても、何からでも音楽を作り出すことができた。「ビートに抱かれて/When Doves Cry」を分析すると、音楽的な才能が詰まっているのは明白だけど、実はすごくシンプルなんだよね。曲を作ったのはいいけど、ベースがないなんて。しかもスマッシュ・ヒットだった!

 プリンスと最後に会ったのは2015年7月4日、ニューオーリンズのスーパードームでだった。シック(ロジャースのファンク・バンド)とステージで一緒にプレイしたんだ。奇遇だけど、あの時デヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」を演奏した。そしてさよならを言ったけど、今生の別れみたいな「さよなら」じゃなくて、「すげえいい演奏だったな。また後で会おうな」って感じだった。

 デヴィッドは病気のことを俺に話さなかった。でも彼が闘病中だってことは知っていた。

 二人のことを愛してるし、会えなくなって寂しい。彼らが世界に与えたもの、俺個人にくれたものは特別だ。彼らは才気がきらめく素晴らしい時間をくれたんだ。彼らのような友人を持てたこと、独特な思考をする人が近くにいたことは最高の贈り物だ。