「ヘア」をめぐって

 高橋のいう有名人の肉体や陰毛とは、直接的には1月に出版された、篠山による女優・樋口可南子の写真集『water fruit―不測の事態』(朝日出版社)を指している。さらに篠山は同じ年のうちに、宮沢りえの『SantaFe』、本木雅弘の『whiteroom』(いずれも同)など現役アイドルたちのヌード写真集を連発して、まさにスキャンダラスな話題を振りまくのである。

 なかでも『water fruit』に「陰毛」を修整せず掲載したことは、写真関係者を驚かせた。それが写っていれば“わいせつ物”と見なされ、警察に摘発される可能性が高かったからだ。さらにその後、「芸術新潮」5月号の荒木特集でも修整はかけられなかった。やがてマスメディアにおいて「陰毛」は「ヘア」と呼び変えられ「へアヌード」という奇妙な言葉が用いられると、一般の関心が急速にたかまっていった。

 といって本誌がすぐにヘアヌードを掲載するわけにはいかない。91年7月号の編集後記に、編集長藤沢正美は、「作品づくり上の必然性が認められ、美しい出来ばえならば頑なに拒むことはしない」が「警察権力による規制などはご免こうむりたい」と書いている。

 藤沢の懸念は当たった。摘発は見送られたものの『water fruit』と「芸術新潮」の編集責任者が警視庁から口頭で警告を受けたのである。また、10月号のニュース欄では「太陽」(平凡社)のヌード特集も同様に、警視庁から警告を受けたことが取り上げられている。

 それだけならまだしも、藤沢の耳には過剰な自主規制の話が伝わってきた。戦後ヌード表現の草分けである中村立行の回顧写真集『昭和・裸婦・残景』(IPC)が取次業者の自主規制で書店に配本されず、また海外から展示や編集目的で取り寄せられた写真を運送業者が荷主に無断で税関に見せているといった話である(8月号編集後記)。

 その後、芸術的でひわい性が薄いヌードに対しては、警視庁は寛容な姿勢で臨むという方針が確かめられた。それを受けて、本誌がはっきりとヘアを解禁したのは翌92年7月号での、英隆、大坂寛、高木由利子、豊浦正明、沢渡朔らの作品によるヌード特集からで、編集後記によると、藤沢は「ヌード写真の今日の地平」を見せるこの特集を数カ月前から企画していたものの、それでも警視庁の基準に抵触する可能性を心配していたと書いている。そして、以降7月号のヌード特集は恒例企画となった。

 もっとも、警視庁が寛容になったとはいえ事件は起きており、その中心はやはり荒木だった。同年4月には渋谷のEgg Galleryで開催中の個展「写狂人日記」に警視庁の家宅捜査が入り、展示中のスライド原板が押収され、荒木と画廊経営者ら5人が書類送検された。さらに翌93年11月には、渋谷のパルコギャラリーでの「エロトス」展に踏み込まれ、販売中の「AKT-TOKYO」展のカタログがわいせつ物として、売り場の従業員と会場責任者が逮捕された。欧州の美術界で認知されたものだけに、この件には国内外から非難の声が上がった。それに対し、荒木自身は翌年2月号のロングインタビューでこう語っている。「わいせつか芸術かっていうけど、芸術の中にわいせつさがまざってなかったら、より芸術にならないんだよ、おれの場合」

女性写真家の活躍

 90年代前半のヌードブームを支えたのは、むろん篠山と荒木だけではない。本誌によく登場したなかでは英、沢渡、小沢忠恭や、話題作「Yellows」シリーズを発表していた五味彬などが知られるだろう。とくに五味の作品は、100人の日本人女性の裸体を標本としてタイポロジカルに記録し、通常の書籍と日本初のCD-ROMによる電子写真集化したことでも話題を集めた。

 また女性写真家の作品も目立っており、高木、大山千賀子、冨士原美千代らの作品は、有機的に構成されたファッショナブルな感覚を発揮していた。写真の世界において、ようやく女性たちの活躍の場が大きく広がり始めていたといえる。

 それを象徴したのが90年に武田花、91年に今道子と、木村伊兵衛写真賞を女性が連続で受賞したことだ。これをうけて
91年4月号の「座談会 写真スクランブル」では「女性写真家たちの胎動」が話し合われている。そのなかで柳本尚規は、彼女たちの活躍の背景について、アートとしての写真の評価の高まりと、社会全体が女性の問題に関心を寄せ始めたことを挙げた。確かに、先に挙げたヌード特集に登場した彼女たちも、まず個人的な表現として写真を始めていた。

 ただ、同時代の社会現象を軟らかく切り取る、児玉房子なども注目を受けていた。児玉は先端技術の現場を歩いた90年の『CRITERIA』(IPC)で注目され、東京に遊ぶ若者たちをとらえた2年後の『千年後には・東京』(現代書館)は木村伊兵衛写真賞の最終候補に残るなど高く評価されていたのだ。本誌で93年4月号から2年間、その続編というべき「東京クルージング」を連載して好評を博している。

 また自立意識の高まりとともに、写真を志向する女性も増えていた。91年6月号の平カズオの「たいら考現学」は、日本大学芸術学部での女子学生の割合がすでに半数近くに達していることを伝えている。

 おもに見られる(写される)側にいた女性たちが、より積極的に撮る側にもなり始めたことは何を意味するのか。その例を示したのが、90年の「女性のまなざし:日本とドイツの女性写真家たち」展(川崎市市民ミュージアム)や、翌年の「私という未知へ向かって 現代女性セルフ・ポートレイト」展(東京都写真美術館)など、国内外の女性の現代写真家を紹介する展示であり、その内容は本誌でも興味深く取り上げた。

 そしてより若い、20代の写真家たちも登場してきた。93年12月号では荒木が愛弟子と呼ぶ野村佐紀子が女友達のヌード「針のない時計」を発表。翌94年8月号の情報欄では、セルフヌードや家族ヌードの作品による初個展「愛の部屋」を開いた長島有里枝が紹介されている。新たなムーブメントが始まったのだ。