このとき、ハミドゥとは約1週間行動をともにした。仮にハミドゥから要らないと言われても、私はお礼を渡すつもりでいたが、お金で彼の労を買ったようには思われたくなかった。考えあぐねた結果、「あなたの気持ちに感謝したい」と話し、私はいくばくかのお礼を渡した。ハミドゥは受け取った紙幣をじっと見つめた後、ありがとうとほほ笑んだ。

 翌年に再びモプチを訪ねた私は、ハミドゥに再会。取材計画を話し、できれば今回も手伝ってほしいと伝えた。するとハミドゥは切り出しにくそうに話しはじめた。

「去年、ユウイチからお金をもらったでしょ。あのお金をもらわなければよかったと、あの後ずっと考えていたんだ。友だちが困っていたら、助けるのは当然のこと。しかも、ユウイチは(会社の金ではなく)自分の金を使って取材に来ている。あのお金はもらってはいけなないものだったように、感じているんだよ」

 私は決して多額を渡したわけではなく、私の財布が許す範囲での、ごくささやかな額を手渡しただけだったのだが、ハミドゥはその金のことをずっと考え込んでしまっていたようだった。ハミドゥの心の中では、多くの時間と労を割いたことから報酬を得られるのは自然であるとの思いと、友を助けることをお金に換算してしまったように感じたことへの罪悪感が、逡巡していた。

 この年、私はあるものを日本から持参していた。お礼を渡す際にすんなりと受け取ってもらいたいと、お年玉を入れるような、和紙でできた小さなご祝儀袋を用意してきたのだ。

 このときもハミドゥにたっぷりと取材を手伝ってもらった私は、そのご祝儀袋に紙幣を入れて封をし、おもて面に漢字で「御礼 岩崎」と記したものを、ハミドゥに手渡した。記した漢字の意味を説明した上で袋を手渡すと、彼は満面の笑みをもって受け取り、中身を開けずにポケットの奥へとしまい込んだ。すんなりと受け取ってもらえたことに、こちらも胸をなでおろした。

 その後も何度か、ご祝儀袋を使っている。

 トーゴのカムランと再会したときには、かねて渡したいと思っていた出産祝いを包んで渡した。マラウイで数日間、街の様子や畑の現状を詳細に紹介してくれたフィスカニにも、「御礼」を記した袋を手渡した。いずれも快く受け取ってくれた。善意と金がてんびんにかかったようなやるせなさを感じることは、互いに、なかった。

 その2年後、カムランの自宅を訪ねると、立派な少年になった息子が私を迎えてくれた。壁には、「出産祝」と書かれた祝儀袋が、画びょうで留められていた。昨年、ハミドゥの自宅を訪ねたときも、「御礼」の袋が食器棚の上に置かれていた。私の気持ちを受け止め、それを大切に思い続けてくれていることが、私が手渡したご祝儀袋から、伝わってくる。

 ちなみに私は、あちらこちらで祝儀袋をばらまきながら取材をしているわけではない。毎回、渡航費と滞在費を工面するだけでやっとの状況だ。

岩崎有一(いわさき・ゆういち)
1972年生まれ。大学在学中に、フランスから南アフリカまで陸路縦断の旅をした際、アフリカの多様さと懐の深さに感銘を受ける。卒業後、会社員を経てフリーランスに。2005年より武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。ニュースサイトdot.(ドット)にて「築地市場の目利きたち」を連載中