戦地にて

 長引いて日常化した戦争、それ自体をテーマとして、報道写真家や有力なアマチュア写真家たちは作品を発表した。もちろん彼らの作品は国策に沿った報道的なもので、従軍文士たちが「ペン部隊」として文芸界で果たしたのと近い役割を担ったといえる。

 38年11月号から翌年5月号まで連載された、金丸重嶺の「漢口攻略写真従軍日記」はこの点を強く意図したルポである。金丸は9月から2カ月間従軍し、破壊された町や難民、そして日本軍の部隊の様相を写真と文章でつづった。だがそこに彼らしいシャープな切り口は見られず、淡々とした描写に終始しているのは、検閲や自粛のためだろうか。

 この従軍中、金丸は名取洋之助や白木俊二郎ら「プレス・ユニオン」の一行としばし同行した。プレス・ユニオンとは、名取が中国派遣軍の肝いりで上海に設立した宣伝用の通信社。この連載の最後は、そのカメラマンだった白木が漢口の激戦で殉職したことへの哀悼で締めくくられている。その言葉は簡潔だが、言いようのない苦さに満ちたものだ。

 39年には、福田勝治「鮮満風物写真行脚」(3月号)、小石清「南支従軍写真集」(5月号)、堀野正雄「満蒙支点描」(9月号)、「大陸写真家傑作集」(10月号)などが掲載された。これらは戦場ではなく現地の民俗文化や日常生活をそれぞれの作風のなかで描写したもので、民族の相互理解による「東亜新秩序の建設」を啓蒙する役割を担っている。

 40年になると、出征兵士が撮影した写真が掲載されたり、戦地での現像法などが解説されたりし始める。口火を切ったのは2月号の特集「カメラと兵隊」で、『麦と兵隊』で知られる火野葦平が広東省に出征したおりの撮影体験を語っている。火野によれば写真好きの将士はカメラを背嚢(はいのう)に入れて大陸各地を転戦し、記念のポートレートやスナップなどをよく撮っていたという。

 まさに火野自身もその一人であり、この号から彼の写真による「僕のアルバム」が連載された(12月号まで)。その写真は前記の金丸の写真よりもフランクで、戦地の日常的雰囲気をよく伝えている。

 5月号では「帰還勇士の戦線写真懸賞」の入選作品が発表されている。それらの写真はみな明るいが、別頁の九州のアマチュア江頭茂による「写真が出来ないといふことについて」という妙な雰囲気の手記が興味深い。江頭は戦地では盛んに撮影したものの、負傷して除隊してから全く写真が撮れなくなり「何な画集をみても、本当の事が解らん」と呟く。それは語ることの許されなかった、帰還兵たちのトラウマさえ連想させる。

ナショナリズムを鼓舞せよ

 表現の可能性が報道写真に収束するなか、2人の新しい写真家が注目された。同じ1909(明治42)年生まれ、報道写真家の土門拳と信州の童画家谷元一である。

 日本工房に所属していた土門は「報道写真家はカメラをペンとした文明批評家」だと主張して、38年7月に藤本四八、杉山吉良、濱谷浩、田村茂、林忠彦らと青年報道写真研究会を結成。同年の「ライフ」9月5日号には彼のクレジットで、宇垣一成外相のフォトルポが掲載されたこともあって一頭地抜けた存在と目された。ただし「ライフ」のクレジットは日本工房にとってルール違反で、同社を辞職する原因ともなった。翌年、土門は国際文化振興会の嘱託に転身すると、室生寺の撮影を始めるなど独自の道を歩きだす。

 一方、熊谷は郷里の會地村(現長野県阿智村)の暮らしを2年にわたり記録した『會地村 一農村の写真記録』を、38年末に朝日新聞社から出版して絶賛された。本書はもともと村史を調べていた熊谷が、本誌で批評や展評を執筆していた美術評論家板垣鷹穂の著書から影響を受けて個人的に制作を始めたものだった。熊谷からの手紙でそれを知った板垣は、作業を全面的にサポートし、出版にまで至らせたのだった。

 本書が反響を呼んだのは、板垣を含め、当時の写真関係がそこにアマチュアに求めていた理想を見いだしたからである。それはナショナリズムの高揚にも資する、郷土愛をもとにした報道写真の実践だった。翌年、本書の成功によって熊谷は拓務省の嘱託写真家となり、満蒙開拓青少年義勇軍や移民の姿を日本と満州各地で記録している。

 土門と熊谷は41年5月号の座談会「日本精神と写真の行くべき道」で初めて顔を合わせている。その席で「ただ村のためになるやうな仕事」をしたかったと述べる熊谷に対し、土門は各地のアマチュアがこれに続かないのは「(郷土への)愛を持っている人が少ない」からだと嘆いた。

 さて、この間、欧州ではすでに大戦が始まっていた。39年9月にドイツ軍はポーランドに侵攻し、翌年6月にはフランスに勝利した。3カ月後には日本・ドイツ・イタリアで三国軍事同盟が締結された。

 すでに日中戦争後から、ナチスの効率的な写真活用を好意的に紹介するグラビアや記事は増えていた。時系列的には小島威彦「ナチスの写真政策」(38年6月号)、「海外グラフ傑作集 ナチスの少年教育」(同11月号)、「ヒトラーと少年少女」(39年3月号)、須地文三「PK隊の使命とその活動」(40年11月号、PK隊は宣伝中隊のこと)などである。それがフランスを敗北させた直後には28ページを費やした「ヒトラー写真伝」(40年7月号)や「空・海に獨軍の威力」(同8月号)など、ドイツの独裁者への礼賛と連帯を強めた。

 友邦ドイツの快進撃を背景に、国内では政党が解散して10月に大政翼賛会が発足。全体主義に基づく新体制運動が称揚され、写真界にも翼賛団体として「日本報道写真家協会」「興亜写真報国会」などが設立されていく。こうした世の空気が写真趣味にとってどのようなものかは、40年11月号の、大江素天による記事の表題を読むだけでもわかるはずだ。求められたのは「芸術写真と新体制 国家意識・民族意識の協調」なのである。

 6年前に成沢が否定した「芸術にまで干輿」されることに対して「勃然として反発するだけの輿論」は起きず、本誌がそれを提起することもついになかったのである。