[連載]アサヒカメラの90年 第1回 (1/2) 〈アサヒカメラ〉|AERA dot. (アエラドット)

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[連載]アサヒカメラの90年 第1回

【創刊前史――】 1920年代の「写真ルネッサンス」

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アサヒカメラ創刊号の表紙

アサヒカメラ創刊号の表紙

淵上白陽「横を向いたポーズ」(日本光画芸術協会)

淵上白陽「横を向いたポーズ」(日本光画芸術協会)

米谷紅浪「農夫」(浪華写真倶楽部)

米谷紅浪「農夫」(浪華写真倶楽部)

福原信三「閑日」(日本写真会)

福原信三「閑日」(日本写真会)

アサヒグラフ創刊号。当時は日刊の写真新聞であり、後に週刊グラフ誌となる

アサヒグラフ創刊号。当時は日刊の写真新聞であり、後に週刊グラフ誌となる

アサヒグラフ臨時増刊「写真百年祭記念号」

アサヒグラフ臨時増刊「写真百年祭記念号」

創刊号を読む

 「アサヒカメラ」は1926(大正15)年4月に、東京朝日新聞社から創刊されている。創刊号は広告も含めると全114ページで定価は80銭。判型は現在と同じだが、もちろん雰囲気はまるで違っている。

 手に取ってすぐ気づくのは、表紙が写真ではなくイラストであることだ。カタカナの「アサヒカメラ」は中央に配されているが、その上の英文の「ASAHI CAMERA The Japanese Journal of Photography」というロゴが強調されている。巻末には英語による本誌紹介欄も設けられ、欧米の写真界を強く意識していたことがわかる。

 肝心の内容はどうか。一般的に写真雑誌の基本的な構成要素といえば、巻頭作品、特集記事や国内外のニュース、機材の詳細な情報(メカ記事)、ハウツーもの、月例コンテストといったところだろう。創刊号も、およそそれに準じてはいる。

 まず巻頭には創刊懸賞の1等を獲得した田中虎一の「柿」を筆頭に、8人の作品が網目銅板刷りで掲載されている。うち2人はオーストラリアからの寄稿だが、東京写真師協会会長の江崎清を除けば、それ以外は写壇、つまり有力なアマチュア写真団体のリーダーたちの作品である。掲載順に挙げると、淵上白陽「横を向いたポーズ」(日本光画芸術協会)、米谷紅浪「農夫」(浪華写真倶楽部)、石田喜一郎「プロムナード」(日本写真会)、福原信三「閑日」(日本写真会)となる。彼らの作品は対象の違いこそあれ、いずれも絵画的なテクスチャーを持った単写真、つまり当時の表現の主流にあった「芸術写真」だ。彼らは、これから始まる月例コンテストの審査員でもある。

 予告によれば、月例は5部に分かれている、本誌編集部が第1部で、そのほかはやはり有力な写壇である東京写真研究会の秋山轍輔、福原、米谷、淵上が担当するのである。読者は、後述するような彼らの作風の違いをすでによく知っており、それぞれに部を選択して応募するというシステムなのである。

 そのほかの口絵はグラビア印刷で、創刊懸賞の入選作品、東京写真研究会主催の公募展「研展」、東京写真団体連合展での優秀作品が紹介されている。どの作品の下にも、作家とタイトルの英訳が記されているのが印象的だ。創刊時の「アサヒカメラ」は主としてアマチュア写真作家が力を競い合い、交流する場であり、さらに海外に開かれた窓口であろうとしていたのだ。

 その志は、東京朝日新聞社のグラフ部長であり創刊編集長の成沢玲川(本名・金兵衛)による巻頭言「創刊の言葉に代へて」によく表れている。彼は全体にやや芝居がかった調子で、関東大震災後の写真界も出版界も行き詰まりのなか「限られた読者しか持ち得ない写真雑誌を創刊する。単なる算盤勘定でないことは明か」と決意をまず語り、前年に自社が主催した「ニエプス写真百年祭」の成果を自負する。確かに、後述するこのイベントの刺激によって、樺太から朝鮮や台湾までを含む写真団体の連合機関として、全関西写真連盟と全関東写真連盟が成立した。成沢はまた、前年7月に東京朝日新聞社から発行された『日本写真年鑑』が、英国写真協会の「ブリティッシュ・ジャーナル」誌上で「写真芸術は我が英国よりも、日本に於いて、より重要視され」ている証しだと評されたと、誇らしげに綴っている。

アマチュア写真家たちの芸術革新運動

 「アサヒカメラ」の創刊は、20年代を通じてアマチュア写真家たちの活発な活動がもたらした大きな成果だった。この期間について、米谷が「写真月報」(小西本店・現コニカミノルタ)誌上に連載した緻密な回想記「写壇今昔物語」で、「写真ルネッサンス」と形容したほどの高揚を見せていたのだ。では、「写真ルネッサンス」の具体的な中身とはどのようなものだったのか。

 日本のアマチュア写真界は、ごく一部の富裕層や外国人によって、明治初期に誕生した。明治10年代、西暦では1880年代から親睦団体が結成され始め、すでに明治末までには北海道から台湾にいたる各地域に写真クラブがあった。

 そのうち東京の東京写真研究会と大阪の浪華写真倶楽部は、それぞれ小西本店と桑田商店という大手の写真材料商の後援をうけて発展し、写壇として機能するようになる。東京写真研究会が主宰する公募による「研展」や、浪華写真倶楽部の「浪展」は表現動向をリードする、一種のアカデミーとして、芸術写真に励むアマチュア写真家たちの目標として機能していたのだった。

 先にも触れたように、ここでいう芸術写真とは、印画に絵画的な効果を与えた表現のことをいう。そのために用いられたのが、ピグメント(顔料)を使う手法だった。それは光によって硬化するアラビアゴムを用いたゴム印画法から始まり、やがて印画を漂白して油性インクで濃淡をつけるブロムオイルなどのオイル印画法などが流行した。いずれも完成までにかなりの時間と手間を要するものだった。


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