マリからブルキナファソへ、ソマリアからケニアへ、ジンバブエから南アフリカへなど、隣国から隣国へと働きに出ている人は多い。外国への出稼ぎといっても、遠路はるばるやってきたという仰々しさを、彼らに感じることは少ない。

 そもそも、国境の概念すら希薄なのではないかとも思える。トーゴでは、西隣りのガーナに親戚を持つ人にしばしば出会った。モーリタニアやマリ、西サハラやスーダンなど、サハラ砂漠の周辺国でも、家族に会うために国境を越える姿を、日常的に目にした。かつて国境線がなかった時代には、国境にまたがる地域が、こちら側も向こう側もなく「この辺り」だったことが、自然とうかがえてくる。
 
 南アフリカ共和国で暮らす、ジャーナリストの男性は、ブルンジ人だった。彼は内戦で家族を失い孤児となり、まさに着の身着のままで、数千kmの道のりをかけてバスを乗り継ぎながら、南アフリカまでたどり着いた。「大変なんて言葉では語れないほどに、大変な道のりだった」と、彼は振り返る。

 ブルンジから南アフリカまで、どうやって国境を越えてきたのかを、聞くと、

「パスポートがなくても国境を通してもらえたし、お金を持っていなくてもバスに乗せてくれる人がいた。食べるものも、眠る場所も、誰かが提供してくれた。国籍が異なっても、アフリカ人というだけで、大きな家族のようなもの。だから、どれだけ困難な状況にあっても、正しく生きてさえいれば、誰かが助けてくれるものなんだよ」

と、答えてくれた。

 アフリカの国境は、植民地統治時代に旧宗主国によって策定されたものがほとんどだ。独立を遂げた現在でも国境として残っているものの、アフリカの人々にとっては、そもそも、国境のなかった歴史の方が、はるかに長い。この大陸の歴史を振り返ると、現地の人々にとって、国境の向こう側に住む人々は、外国人と言うより「お隣さん」に近いのかもしれない。

 私が北から南へとアフリカを訪ねる中で、国境を境目に、人や文化ががらりと変わったことはなく、国境を境に反目しあうような雰囲気を感じたこともない。人も文化も緩やかにグラデーションしていくのが、アフリカ各地における私の国境感だ。

岩崎有一(いわさき・ゆういち)
1972年生まれ。大学在学中に、フランスから南アフリカまで陸路縦断の旅をした際、アフリカの多様さと懐の深さに感銘を受ける。卒業後、会社員を経てフリーランスに。2005年より武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。

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