うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。45歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は3度目の桜について。
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「また桜の時期にでも会いましょう」と昨年2月に知人に言われたときは、うらめしく感じた。
そのとき私が話したことを聞いていれば、2カ月後の開花時期のことなど請け合えないと分かるだろうに。ぐったりした気分になった。
その桜を無事に見届けて、さらに1年。先日、病気になって3度目の桜を見に出かけた。
陽気のせいか、足取りが軽く感じる。どんどん歩いてゆくと、気づいたときには配偶者は20メートルほど後ろにいた。立ち止まり、追いついた彼女に「歩けるうちに歩きたいから」と言った。もちろん、「歩けるうちに」は、疲れる前ではなく、病気がさらに悪くなる前に、という意味だ。
仕事と私の世話で疲れている彼女のことだ。口に出さなくても、2人でしゃべりながらゆっくり歩きたいのはわかるが、応えられない。「歩けるうちに」が勝るのだ。
都内随一の桜の名所まで、歩いては待ち、を何度か繰り返した。花見客にもまれ、自撮りにまごつく私たちを見かねて近づいてきた若者にタブレットを託し、桜とともに撮ってもらった。
来年の桜のことは考えない。一日一日を積み重ねているときに、1年を単位にするのは現実味がないからだ。
1年生きたということは寿命が1年減ったということだ。しばらく経ってから気づいた。
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春になると思い出す漢詩がある。
年年歳歳 花相似(年年歳歳、花相い似たり)
歳歳年年 人不同(歳歳年年、人同じからず)
来る年ごとに花の姿は変わりない。しかし、見る人は変わってゆく。そんな人の一生のはかなさをうたったもの、とされる。
しかし、「不同人」はこう読み替えられないかと今、思う。
1人の人間はいつまでも同じ状態ではない。病気にもなれば、望む方向にも変われる――と。