竹島や尖閣など領土問題に揺れるている日本だが、もうひとつの領土問題に北方領土がある。こちらは竹島などとは本質的な違いがあると、ニュースキャスターの辛坊治郎氏は指摘する。

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 北方領土問題は、本質的に違う。それは、日本が戦後、戦勝国と平和条約を結んで独立国として再出発するにあたり、その国土の範囲をどこまでに限定されたのかという大問題にぶち当たるからだ。

 1943年、カイロに集まった連合軍の面々は、戦後の日本領土についての話し合いを始めた。この時決まったのが「日本が奪い取った環太平洋の領土をすべて放棄させる」という方針だった。この観点に立った時に、台湾、朝鮮半島、太平洋の島々などの放棄については「敗戦」という厳然とした事実を前に、受け入れざるを得ないだろう。北方領土はどうか。

 1855年の日露和親条約で、択捉(えとろふ)島とウルップ島の間に境界線が引かれ、樺太は日ロ混住の地と定められた。その後、1875年の千島樺太交換条約で、日本は樺太を手放す代わりに、千島全島を領土とした。カイロ宣言の趣旨からすれば、日露戦争の結果、日本領になった南樺太はともかく、千島全島は間違いなく日本領である。しかしここで、我々の前に立ちはだかるのが、サンフランシスコ講和条約第2条(C)項だ。

「日本国は、千島列島(略)の権利、権原及び請求権を放棄する」

 千島列島はどこからどこまでか?

 現在の日本の公式見解は「国後(くなしり)・択捉は千島列島ではない」だが、講和条約にはそんなことは一言も書かれていない。択捉島だけでも、その面積は東京都の1.5倍ほどあり、常識的な感覚で地図を眺めれば、この地は「千島最大の島」だろう。残念ながら講和条約にサインした当時の日本政府が国後・択捉を放棄するつもりだったのは歴史的事実である。

(週刊朝日2012年10月5日号「甘辛ジャーナル」からの抜粋)

※週刊朝日 2012年10月5日号