プロならば、改正をめぐり賛否どちらにせよ、目標から逆算し、いまなすべきことをしているはずだ。たとえば、今ごろ彼らがはしごしている数多くの新年会。そこで語る内容、有権者との接し方一つとっても、国民投票で有権者が果たす役割を考えれば、前年や前々年と同じになるわけがない。
想像してごらん、と呼びかけるジョン・レノンの「イマジン」にこんな替え歌がある。といっても耳にしたことがあるのはサビだけだ。たぶん福島時代の同僚の適当な鼻歌だったのだろう。
「暇人(ひまじん)。オール・ザ・ピープル」
あまりの駄洒落に脱力するほかない。だが病気になり、以前よりも命の限りを意識するようになると、こんな歌にも時間の無駄遣いへのちょっとした怒りが伴うようになった。
どれほど本気でものごとに取り組もうとしているのかが見えない政治家、医療者。一生懸命かもしれないけれども、愛読者の耳に心地よい言葉を伝えるだけで、それ以外の人たちの心を本気で揺さぶろうとしているようには見えないメディア。どいつもこいつもルーチン・ワークを繰り返して大切な時間をつぶす暇人どもめ――。まあ、そんな感覚だ。
いささか感情的になるにはわけがある。今月7日、一人のがん患者の女性がなくなった。ウイッグを取り上げた私のコラムへの感想をフェイスブックで書いてくださってから1カ月ほどしかたっていない。
私の目の前にはまだ、いろいろなことを書き込んでいけるまっさらなカレンダーがある。
いま自分は本気で生きているか。足元と先々を見つめつつ、今年も問い続けたい。