死にたいと意識しているのに、体が動かない。
■自分への「合理的」な解説
自分が思い通りに動けないのはストレスです。植木等は「わかっちゃいるけどやめられない」と開き直って軽い調子で歌いましたが、そんな軽い話ばかりではありません。人はこうしたストレスに弱いので、自分に対して何らかの説明が必要になります。
悲劇の原因はその説明(解釈)にあります。
被害者たちは、一歩踏み出せない自分の状態を「死にたいけど、一人で死ぬのが怖い状態」だと自分自身に説明したようです。
その解釈を前提にすれば、一緒に死んでくれる人を探すのはいたって合理的な行動です。
一緒に死んでくれるという人に出会って、いざ実際に死のうとした瞬間、無意識にあった生きたい気持ちが意識化され、その人が「そっか。それなら、どうやって生き延びるか一緒に考えようよ。」と言ってくれればよかったのですが、残念ながらそういう相手ではなかったわけです。
前振りが長くなりました。これと同じことが、離婚を巡ってよく起こります。
夫婦がうまくいかないとき、時折発せられる言葉が「離婚」です。実際に言ったり、言われたりしたことがある方は、多くないかもしれませんが、全く「思ったこともない」という方は少数派なのではないでしょうか。
離婚の場合は、相当にこじれていない限り、「離婚したい」気持ちが100%ではないことに多くの人は気づいています。しかし、座間の事件と似たメカニズムで、離婚という言葉が現実化してしまったり、そこまで行かなくても泥沼に陥ってしまうケースは、仕事柄多数見てきました。
話を座間の事件に戻すと、正しい解釈は「自分は、死にたいほど辛い」です。「死にたい」は、最大級ではあるものの修飾語に過ぎません。語られていない「辛い」気持ちこそが彼女らのメインテーマです。何がそんなに辛いのかはもちろん個人、個人違います。
同じように考えると、「離婚したい」「もう離婚だ」「離婚しかない」という言葉(気持ち)は、「離婚したいほど苦しい」が正しい解釈です。
■誤った解釈が独り歩きする理由