実際、人の命が軽んじられたこの時代に、秀吉は極力敵を殺さず、調略で下すことに長けていたという。しかしである。天下人となったのちは、茶友・千利休の賜死、後継者に擬した豊臣秀次一族の虐殺、キリシタンの集団処刑、理由の明らかでない朝鮮出兵と、タガが外れたとしか思えない。
天正19年(1591年)、最後まで敵対していた小田原北条氏を下して天下を統一した年に、淀の方との第一子鶴松が夭折、ここからおかしくなってきた。秀吉が死亡したのはその7年後であり、食欲不振や羸痩、譫妄、不整脈などの症状が出現したのは死の3カ月前からである。死因には結核説や消化管悪性腫瘍、尿毒症など諸説あるが、慢性消耗性疾患に罹っていたことは間違いない。ただ、戦国武将の自然死による平均没年を考えると、特に短命とは言えない。
後継ぎが欲しい
秀吉が晩年最も悩んだのは、後継者秀頼が幼く、無事に天下を継承できるかどうかだった。家康や前田利長ら五大老にあてた遺書は涙を誘うが、結果は歴史の教科書に見る通り。
女好きで多くの側室もいた秀吉だったが、記録に残る実子は長浜時代の秀勝(夭折)、淀の方の生んだ鶴松、秀頼の3人のみである。おそらくは秀吉に乏精子症など男性不妊要因があったのではないか。同時代から、淀の方の大野治長や石田三成との浮気の噂もあるが、大坂城の奥に間男を引き込むことなどは、まず不可能だろう。無精子症でなければ、不妊治療の成績は悪くない。
もし、16世紀に筆者と同僚たちがタイムスリップすれば、配偶者間人工授精や体外受精で秀吉の晩年には立派な後継者が育ち、江戸時代ならぬ大坂時代が続いたかもしれぬ。ただ、いくら時間旅行者といっても(法は遡って適用されないとはいえ)我々は日本産科婦人科学会倫理規定に拘束されるので、夫婦それも一人だけしか不妊治療はできない。そのためにはねね(北政所)が十分に若い長浜時代に飛ぶ必要がありそうである。側室も婚姻関係とみなして、各々に主治医がつくという法解釈もありえるが、現実には無理であろう。
こちらの記事もおすすめ 豊臣秀吉と明智光秀のタイムラインに柴田勝家が乱入!?秀吉がナンバーワン家臣になるまでの一部始終<本能寺の変から山崎の戦い、そして清州会議へ>