日本シリーズでは、V9時代の巨人に5度挑むも1度も勝てず、上田監督が指揮をとった75年に赤ヘルブームで初優勝の広島を破り、悲願の日本一を達成した。日本シリーズでは、71年の巨人との第3戦で山田が王に打たれたサヨナラ本塁打や、78年のヤクルトとの第7戦では大杉勝男の本塁打の裁定をめぐって上田監督が1時間19分の抗議を行うなど、本塁打にまつわるエピソードが印象に残る。

 80年代から90年代には、西武黄金時代が到来する。広岡達朗監督時代の82、83年に東尾修、森繁和、田淵幸一、山崎裕之、大田卓司などのベテランの活躍で2年連続日本一を達成すると、広岡監督が阪神との日本シリーズに敗れ、森祇晶(昌彦から改名)監督に代わった85年からは、近鉄が優勝した89年を除いて4連覇と5連覇を達成し、V9時代の巨人に匹敵する成績を残した。

 事実、その強さは83年と87年の日本シリーズで巨人を破った際には「盟主交代」と言われた。森監督時代には、秋山幸二と清原和博に89年からデストラーデも加わったAKD砲を中心に、石毛宏典、辻発彦、平野謙、伊東勤と多様な顔ぶれの攻撃陣に、投手陣も工藤公康、渡辺久信、郭泰源、リリーフでも鹿取義隆、潮崎哲也など、名前を挙げるとキリがないほどの戦力が揃ったチームだった。

 90年代のセ・リーグでは、野村克也監督率いるヤクルトが10年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一を記録した。ID野球と呼ばれたデータ重視の野球で、要の捕手として野村監督の分身と言われた古田敦也がその象徴となった。池山隆寛、広澤克実の「イケトラ・コンビ」を中心とした打線は、飯田哲也、秦真司などの職人肌の選手に、ハウエル、オマリーなど、外国人選手の活躍も目立った。

 投手では石井一久、吉井理人、高津臣吾など、のちのメジャーリーガーや、川崎憲次郎、伊藤智仁などの実力派が揃った。さらに田畑一也や小早川毅彦など、他球団を戦力外になった選手をうまく活用し「野村再生工場」と呼ばれるなど、名将・野村を強烈に印象付けるチームだった。

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