■スイーツの功罪
子息の夏目伸六によると、来客が多い夏目家では常に酒肴を用意していたが、漱石は下戸で晩酌は「正宗」を猪口一杯であったという。洋行後は朝食はパンになったが、イギリスパンにバターと砂糖をつけ、紅茶にもたっぷり砂糖を入れていた。好物はシュークリームやアイスクリームなどの洋菓子で、到来物があると、家族や門人には与えず一人で食べてしまったという。
さらに、ジャムが大好きで、「吾輩は猫である」には漱石の分身である苦沙弥先生が、ジャムを舐める情景が度々登場する。漱石の“食”を研究する河内一郎は、著書『漱石、ジャムを舐める』で「猫」が書かれた1905年当時、流通していたのは英国キャンベル社の苺ジャムではなかったかと考証する。
こうしたわけで漱石には糖尿病の持病もあった。ただ、糖尿病が直接の致命的疾患であったという証拠はない。
一方、見過ごされがちであるが、糖尿病患者ではピロリ菌(Helicobacter pylori)の保有者が多い。ピロリ菌はウレアーゼ活性があり胃粘膜でアンモニアを産生し、消化性潰瘍の原因となる。逆にピロリ菌の存在自体が一部の糖尿病の悪化要因になる。20世紀も後半になってからH2ブロッカーやプロトンポンプインヒビターなど優れた抗潰瘍薬が開発され、さらに除菌療法が一般化したが、当時としては胃に細菌がいて疾患の原因となっているという概念自体が存在しなかった。
また、糖尿病もその存在は知られていたが、インスリン発見は漱石没後5年の21年であり、臨床応用はさらに先である。
理性的ではあっても、文学上の悩みや人間関係の悩みも深かった漱石にとって、甘いものはストレスのはけ口だったのだろう。ロンドン滞在中、言葉も通じず、風采も上がらない東洋人は下宿にこもってひたすら原書を精読する毎日を送る。
そんな時、心の安らぎとなったのが、英国で初めて出会った甘いジャムと砂糖のたっぷり入った紅茶だった。糖分は直接、血糖値を上げるのみならず、βエンドルフィンの分泌を促進し、反応性に分泌されるインスリンは脳内でトリプトファンからセロトニンの合成を促進して安堵をもたらす。ストレスは胃潰瘍はもちろん糖尿病にも重要な悪化要因である。
しかし、明治という時代のエリートにとって、諸々のストレスは逃れられない義務であった。自身が見出した甘いものによる解決が、文豪の寿命を縮めたのかもしれない。
(メディカル朝日連載「歴史上の人物を診る」から)
早川智
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