さっきの話で言えば、「育英会」は、今は存在していない。公的な奨学金制度の運用主体は、2004年から「日本学生支援機構」に変わっている。組織名自体は大した問題ではないのだが、「育英会」と語る人にとっての「奨学金」のイメージは、一部の優秀な人が借りるもので、しかも無利子がメインだというもののようだ。その前提で考えると、返せないのには個人的な問題があるという理解をしてしまうのもわからなくはない。しかし現状をみれば、奨学金を借りられる人の枠は「一部の優秀な人」に限られず大きく広がっているし、かつてと比べて有利子で借りる人のほうが多くなっている。
現在の「国立の授業料」に驚きを覚えることについても、過去の金額と比較していくと納得がいく。現在の国立大学の授業料は、年間53万円以上だ。しかし今から30年前には年間30万円だった。さらにさかのぼれば、昭和50年には年間3万6千円と桁まで違う。しかも授業料が上がっているのは国立だけではない。私立大学でも、授業料は年間約86万円にまで上がっている。入学金や授業料以外の施設設備費などを含めると、負担はさらに大きいものとなる。
「先生になったら免除になる」という仕組みは、かつては存在していたが、日本学生支援機構になってからは廃止されている。現在でも、大学院で借りた無利子の奨学金については、優れた業績を残している場合に返還免除になるという仕組みはあるが、対象者は「貸与を受けた者の3割を上限」とすることと定められている。
ここに挙げた、奨学金制度や授業料に関することだけを見ても、学生を取り巻く状況は大きく変化している。付け加えるならば、大学を卒業した先にある社会のありさまも、かつてとは異なっている。もはや大卒なら終身雇用で年功序列型賃金の仕事があるという時代ではない。奨学金を借りても、安定的に返還を続けられる保障はない。それでは大学に行かなければ問題は解消するのかと言えば、そうとも言えない。高卒の有効求人倍率は、短期的には回復しているものの、依然として減少傾向が続いている。
こうして見ると、奨学金問題は、制度や社会状況の変化とともに根深い問題になってきているように思われる。しかもそれは一時的なものではない。このまま何もしなければ、より深刻化していくだろう。
「奨学金」をめぐる認識の世代間ギャップを埋めていくことは、上の世代が現在の状況を把握する助けになるだろうし、下の世代が自分たちの置かれた状況を相対化する上でも有益な資源となる。結果として、奨学金問題の見え方も変わってくるはずだ。私たちの社会の問題として「今のうちにどうにかしないと」と思えるのではないだろうか。(諏訪原健)