NHK芸能局長の長沢泰治は、更なる受信者増を目指して、「日曜日の夜に日本中のお客さんを全部こっちに向けさせる”日本一のドラマ”」を作ろうとしていた。

 それが「大型時代劇」(『大河ドラマ』の呼称は当時まだなかった)第一回作品である舟橋聖一原作の「花の生涯」だった。

主人公の井伊直弼は「安政の大獄」「桜田門外の変」という歴史的大事件の当事者故にネガティブなイメージが強い人物だが、「花の生涯」では「開国の英傑」「開明的な人物」として描かれた。

 放送期間9ヵ月というテレビドラマ史上かつてない破天荒なこの企画で、もっとも難航したのはキャスティングだった。長沢泰治は、長谷川一夫、京マチ子、淡島千景、佐田啓二など映画界の大スターの起用に強く固執した。

 だが他社出演とテレビ出演を禁じた「五社協定」でスターを拘束していた映画会社を相手に、人気スターをテレビ出演させる交渉は至難の業だった。そんな「五社協定」の壁が崩れたのは、斜陽化する映画と隆盛するテレビの勢いの差だ。

 井伊直弼役に歌舞伎界のエース尾上松緑が決まると、映画界の人気スターだった佐田啓二、淡島千景、香川京子の出演が実現し、その豪華な出演陣は世間をアッと言わせた。「花の生涯」はキャスティング面でも「娯楽の王者・映画」に挑戦した初めてのテレビドラマだった。

「花の生涯」のクライマックスは、いうまでもなく「桜田門外の変」で、大掛かりな撮影をどこでやるかが次の難関だった。
演出助手を務めた大原豊氏は自著「NHK大河ドラマの歳月」で次のように回想している。

〈京都太秦の東映撮影所には東映城といわれる城のオープンセットがありました。演出の井上博氏はその城をどうしても借りてこいと言い出したのです。五社協定もさることながら映画の撮影所にテレビカメラが入ることなど考えられない当時の状況です。まして『花の生涯』の人気は、映画界にある反撥を起こしています。(中略)私は重い心を引きずりながら、京都の太秦に出かけました。案の定、撮影所はけんもほろろです。それから一週間、私の撮影所通いが始まりました〉

 大原氏の粘り強い交渉が功を奏して門戸を開放した東映撮影所での撮影が敢行された。かつてない壮大なスケールで描かれた「桜田門外の変」の37話は32.3パーセントという驚異的な視聴率(平均視聴率20.2パーセント)を上げて、大河ドラマ第一回の「花の生涯」は成功裏に終了する。

 放送翌年の1964(昭39)年、井伊直弼が城主だった彦根城には120万人観光客が押し寄せ(前年は70万人)、「ドラマと観光資源」という副産物をもたらした。

 そして「東京オリンピック」の成功で日本の存在を世界にアピールした。(文 植草信和)

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植草信和

植草信和

植草信和(うえくさ・のぶかず)/1949年、千葉県市川市生まれ。キネマ旬報社に入社し、1991年に同誌編集長。退社後2006年、映画製作・配給会社「太秦株式会社」設立。現在は非常勤顧問。

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