勝負中踏切のすぐ近くには勝負公園という小さな児童公園がある。やはり地名なかと近くの家々の表札をいくつか観察したら、1軒だけ「加古川市平岡町土山字勝負」という表記を出していた。他の家は「字勝負」が省略されていたので、これは実に貴重な証拠である。住所を分析すると、平岡町というのが合併する以前の自治体名(平岡村)、次の土山がその中を区分した大字(江戸時代の村)にあたり、字(小字)はさらに細分化した地名だが、地番さえ書けば郵便は届くので最近は「字勝負」を記載する人が少なくなっているのだろう。
■土山駅前には鉄鋳場踏切-タタラか梵鐘か
勝負公園を後にして土山駅へ向かうが、かつてこのあたりを走っていた別府(べふ)鉄道の廃線跡がどうなっているか気になったので、ここから山陽線の南側へ行ってみることにした。
圓満寺の五重塔の向こう側へ回れば線路跡のはずなのだが、よくあるように遊歩道と化していた。夕方の迫る時間なので犬の散歩をする人が目立つ。別府鉄道は「昭和の坊ちゃん列車」とでも言うべきクラシックスタイルの車両のまま昭和59年(1984)まで存続していたのだが、私は乗り損ねてしまった。もともと海沿いの別府に工場を構えた多木製肥所(現多木化学)が原料・製品の輸送のために敷設した鉄道である。
遊歩道は土山駅の手前で山陽本線と合流する形で終わるのだが、ホームの手前の大きな踏切がまた変わった名前だった。「鉄鋳場(てっちゅうば)」踏切である。これも勝負のように地名かもしれないが、駅前にあったその類の工場に由来することも考えられる。帰宅後に調べてみたら、駅付近の小字が鉄鋳場または鐘鋳場と称するらしい。そうであれば「てっちゅうば」の読みは怪しい。ネットでこの地名を取り上げた個人サイトに駅前の「自転車等放置禁止区域図」の写真がアップされているが、これには「鐘鋳場」と明記されていた。
このあたりから判断すると、おそらく読みは「かねいば」で、それに鉄鋳場・鐘鋳場の2通りの字が地図や文書に記されたのだろう。小字名に2通り以上の表記があるのは珍しくない。そもそも鉄は伝統的にカネと読むのが当たり前で、どうも伝統的なタタラ製鉄に関連する地名の匂いがする。鐘鋳場の文字からは寺の梵鐘を作るイメージが湧いてしまうが、これは「カネ」という音に影響された作為的な字の変更ではないだろうか。さて、日も暮れたし、第1回の旅はこの辺にして、土山駅から最新のカネ製の電車で神戸の宿へ参ろうか。
今尾恵介(いまお・けいすけ)
1959年神奈川県生まれ。地図研究家。明治大学文学部中退。中学生の頃から国土地理院発行の地形図や時刻表を眺めるのが趣味だった。音楽出版社勤務を経て、1991年にフリーランサーとして独立。音楽出版社勤務を経て、1991年より執筆業を開始。地図や地形図の著作を主に手がけるほか、地名や鉄道にも造詣が深い。主な著書に、『地図で読む戦争の時代』『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み』(白水社)、『鉄道でゆく凸凹地形の旅』(朝日新書)など多数。現在(一財)日本地図センター客員研究員、(一財)地図情報センター評議員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査