三光神社の幸村像。奥に見えるのが「真田の抜穴跡」
三光神社の幸村像。奥に見えるのが「真田の抜穴跡」
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三光神社「真田の抜穴跡」正面
三光神社「真田の抜穴跡」正面
心眼寺山門。門扉にも六文銭が描かれている
心眼寺山門。門扉にも六文銭が描かれている
安井神社の幸村像。討たれた時、幸村は像のように座って休憩をしていたのだとか
安井神社の幸村像。討たれた時、幸村は像のように座って休憩をしていたのだとか

 NHK大河ドラマだけでなく、今年12月、初の学術的発掘調査が行われ、盛り土とみられる跡が見つかるなど、何かと話題の「真田丸」。ドラマ最終回を迎えるにあたり、心配されるのは「真田丸」ロスだ。そこで今回は、そんな「真田丸」ロスに備えるべく、真田ゆかりの神社を紹介したい。

●3つの光が意味するものは

 そもそも真田丸とは、徳川と豊臣の最後の戦い、大坂冬の陣で真田信繁(幸村)が大阪城の南側に築いた砦(とりで)のことである。真田丸が築かれていた跡地付近には、幸村由縁の寺社がたくさんあり、一帯につながる商店街は真田ロードと名付けられている。真っ赤なのぼりが立ち並ぶ様子はまさに、「真田幸村の街」という風情である。

 なかでも、大阪城の真南に立つ「三光神社」には、大坂城から真田丸まで続く抜け穴跡と言われる遺構が残されていて、11月には真田祭が開催されている。

 三光神社の創建は古く、西暦400年代初頭と伝わる。永く「姫山神社」と称していたが、のちに「中風封じ」で名高い、陸前国(現在の宮城県あたり)の「三光宮」を勧請し、以来「三光神社」となった。おもしろいのは「三光宮」の三光は、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月讀神(ツキヨミノミコト)、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)という、太陽、月、星を表す神、3柱であるのに対し、「三光神社」の三光は、天之御中主神が素戔嗚尊(スサノオノミコト)に置き換わっていることだ。

 太陽、月、星の光のうちの星の神が、スサノオと入れ替わることによって、3姉弟がそろった形となった。これは都に近い土地柄と、疫病に悩まされていた時代背景によるものだろう。なぜなら、 スサノオは強力な厄払い神として、奈良時代以前から崇(あが)められていた神だからだ。このため、「三光宮」が日月星神社と呼ばれていたのに対し、「三光神社」は日月山神社と呼ばれていた。

●幸村にあやかった「勝守」が大人気

 境内には江戸時代に勧請された野見宿禰(相撲の神さま)がおり、場所は徳川軍をまったく寄せ付けなかった幸村の真田丸跡地だ。しかもスサノオは武神でもある。勝負運を付けてくれる神社としてこれ以上のパワースポットがあるだろうか?

 当然、こちらの一番人気のお守りは「勝守」である。

●幸村の足跡をたどって

 三光神社から西へ数百メートルのところに「真田丸跡」の碑が建っている。この碑の向かいには、幸村と嫡男・幸昌のお墓のある「心眼寺」がある。このお寺は江戸時代に2人のために建立されたお社だという。そのため山号は「真田山」、寺紋は六文銭だ。幸村のお墓は各地に残されているが、こちらのお墓は2014年に建てられたものである。ちなみに真田丸があったのは、「心眼寺」よりもさらに西であった説が強く(最近のニュースではもっと広い範囲との説も)、「三光神社」に残る横穴は、真田丸を攻めた前田利常軍の堀った塹壕(ざんごう)の可能性が高いらしい。

 大河ドラマの最終回を楽しみにされている方もいらっしゃるだろうから、さらっと書くが、大阪城の南側に「一心寺」と「安井神社」がある。「一心寺」の境内には、真田の抜け穴井戸跡というものが残されており、「安井神社」は幸村終焉(しゅうえん)の地と言われている。「安井神社」にも幸村の像が残されているが、「三光神社」のものと比べて終わりを迎えた武士の悲哀さを感じさせる像になっている。

●幸村の最期は怒とうの攻撃

「一心寺」はまさに、家康が大阪夏の陣で本陣を構えていた茶臼山の西に位置する。この時の幸村の猛攻は、のちにいくつもの文献から読み解くことができるが、「御旗本大崩れ」と藤堂高虎が記したほどの勢いで、楽勝と見ていた徳川軍を大慌てさせている。しかし、勢いもここまでとなった幸村の終焉は、そのまま豊臣家の終焉へとつながった。

 さて、真田幸村の家紋は六文銭だが、これは三途の川の渡し賃でもある。真田軍の勇猛さは、常にあの世へ行く準備をしているという心構えにあったのかもしれないが、死出の旅賃を見ながら戦わなければならない相手に与える威圧感も相当なものだっただろう。幸村の終焉の地となった大阪城一帯には、国元ではないにもかかわらず、数多くのゆかりの地が残されている。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)