また大事な仕事のひとつが、生活相談だ。文化の違う外国に暮らしていれば、悩みは多い。病気になって苦しんだり、日本語がうまく使えず困ったりしている外国人は多い。そんなときにもできる範囲で助け舟を出す。病院などでの通訳、カウンセリング……「子供が日本で暮らすうちにどんどん日本語が堪能になって、親が置いていかれる、という悩みは多いですね。コミュニケーションが難しくなってしまうのです」(マティルデさん)これは、海外で暮らす日本人にとっても共通の問題だ。教会は駆け込み寺でもあり、社会福祉の場でもあるのだ。
英語のミサを受け持っているのはシスター・アビーさん。フィリピンのバタンガス出身で、やはり宣教のために来日して8年ほどになる。
「最近はナースや介護師といった分野でインターンとして働くフィリピン人が増えています」という。
そんなフィリピン人たちは、ミサの後になると炊き出しを行う。故郷の味をみんなでつくり、食堂でともにいただくのだ。教会は祈りの場というだけではない。仲間たちと触れあえる社交場でもあるのだ。ミサで神さまに触れ、心を安らかにしたあとは、友人や親戚とひとしきり談笑する。
「仲間同士、会って、話し、問題をわかちあう。同じ国の人だけではありません。同じミサを過ごせばきょうだいになれるのです」(アビーさん)
世界の多くの人々にとって、宗教とは生活すべての規範であり、行動を律するルールでもある。日本にも仏教や神道などと絡み合った独特の宗教観はあるが、異文化をつまみぐいして取り込んでいく日本人の民族的性格上、確固とした信仰はなかなか根づかない。
クリスマスやハロウィーンで大騒ぎをする姿は「文化としては理解できますが、ちょっと商業主義に走りすぎにも見えます」(アビーさん)と映る。
そして日本人は、よく指摘されることではあるが「いつも焦っている。なにかに追われている、追いかけている」(マティルデさん)ように見えてならない。「電車の中には負のエネルギーが満ちているのを感じる」(アビーさん)。
そんな日本独特のプレッシャーを、在住外国人の人々もやはり感じている。このストレスを和らげるための教会であり、ミサでもあるのだ。教会に来ると、なにか重い感じが抜けていく、軽くなると語る人は多い。
日本に住む外国人たちは生活環境のひとつとして、生活に欠かせないものとして、宗教施設を求める。心のインフラとでもいえばいいだろうか。
いま、日本人が心のよりどころにできる場所は、果たしてあるだろうか。(文・室橋裕和)