東京・池袋、西口公園。その片隅に、小さなモニュメントがあることを知る日本人は少ない。ショヒド・ミナールという幾何学的な碑で、これはバングラデシュの誇りなのだ。
1947年、イギリス領インド帝国が崩壊し、イスラム教徒の多い地域が「パキスタン」として独立した。いまのパキスタンと、バングラデシュを合わせたエリアだ。しかし両国は広大なインドを挟んで距離が離れていた。同じイスラム教徒とはいえ、文化や言語が違う。やがてバングラデシュはイギリス支配以前は別の国であったのに、「東パキスタン」と呼ばれるようになり、西側パキスタンの政治的支配下に置かれてしまう。
何よりもバングラデシュの人々が憤慨したのは、土地の母語であるベンガル語を否定されたことだった。パキスタン人は、自分たちの言語であるウルドゥー語の公用化を進めたのだ。1952年2月21日には、抗議する人々に対して警官隊が発砲、多くの命が奪われた。しかしこの運動が、パキスタンからのバングラデシュ独立戦争につながっていく。
いまもバングラデシュ首都ダッカには、ベンガル語を守るシンボルとして、ベンガル言語運動の犠牲者を追悼する国定記念碑であるショヒド・ミナールが立っている。そして2月21日はユネスコによって国際言語デーと定められた。バングラデシュの人々にとってショヒド・ミナールは、民族独立と、国際平和の証なのだ。だから世界各地の、バングラデシュ人が多く住む場所には、そのミニチュアやレプリカが建てられている。池袋に建てられた小さなモニュメントが、日本のショヒド・ミナールなのだ。
「1980年代から90年代にかけて、バングラデシュ人たちが増えてきたと思います。ここ豊島区のほか、まわりの北区や板橋区、練馬区の、小さな町工場や中小企業で働く人が多くなっていったんです。バブル景気で人手が足らず、外国人労働者は重宝されました」
と話すのは、来日してもう30年ほどになるというシェイク・アリムザマンさん。日本全体でおよそ1万人のバングラデシュ人が暮らしているが、そのうち豊島区、北区、板橋区、練馬区だけで1000人を数える(数字は法務省および東京都による)。これらの区からアクセスしやすい池袋が、コミュニティーの中心になっていった。