今年は第二次世界大戦の終結から70年にあたり、世界各地で関連の行事が予定されている。戦争の記憶の風化が進む一方で、あの戦争で何が起きたのか改めて振り返り、教訓を得ようとする動きもある。新たに発掘された資料から見えてきた新事実とは。最近の研究成果を紹介する。
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旧日本軍は反ソ反共だったというイメージは、戦後の日本に広く行き渡っている。しかし、それは本当だろうか。
海軍史研究会編『日本海軍史の研究』(吉川弘文館)によると、米国を第一の仮想敵国とする日本海軍は、第一次世界大戦中の1917年に起きたロシア革命後のシベリア出兵(1918~22年)で途絶えた日ソ間の国交樹立に積極的であった。
日露協会会頭で東京市長を務め、親ソ派政治家として知られる後藤新平が1923年、外務省・内務省の反対を押し切って、ソ連の駐華全権代表アドリフ・ヨッフェを日本に招き、日ソ国交樹立を推進しようとした。その際には、総理大臣と兼任の海軍大臣加藤友三郎大将、海軍次官井出謙治中将が後藤を支援するなど、海軍は組織の総意として日ソ提携を望んでいた。
海軍が日ソ国交樹立により切望していたのが、北樺太油田利権の獲得であった。当時、世界の海軍では急速に石炭から石油に転換しつつあり、この趨勢に遅れないために油田利権の獲得が必須であったのだ。ロシア革命後の日本において、大臣以下、組織の総意として対ソ提携を唱えたのは、海軍くらいなものではなかったか?
その後、海軍は、1925年の日ソ国交樹立により、翌1926年に予備役の中里重次中将(元海軍省軍需局長)を社長とする北樺太石油株式会社を設立させて念願の北樺太油田利権を手に入れる。1930年度の産油量は19万2000トンを超えた。しかし北樺太油田の産油量は、第一次五カ年計画(1928~32年)で生産力に自信をつけたソ連により、外国資本締め出しにあい、1936年の日独防共協定のため経営妨害にも遭って、ジリ貧となった。そして第二次世界大戦突入後の1941年4月にモスクワ入りした外務大臣松岡洋右は、日ソ中立条約を締結する条件としてスターリンに北樺太利権解消を約束させられた。1944年3月に日ソ間で北樺太利権の移譲議定書が調印され、北樺太石油は事実上ソ連に接収された。
戦前から軍部は反共的で、社会主義国家ソ連とは相容れない関係に立っていたというのは、戦後の冷戦時代にかたち作られた歴史認識である。広大な満州の地で旧ロシア勢力と日本の勢力とが直接接触し、人や物の交流がさかんに行われていた状況の下では、相手を否定するより、利用できるものは利用する現実主義が力を持っていた。その点では、第二次世界大戦後の方が排他的教条主義のために、現実的対応が困難であったといえよう。海軍が北樺太の油田に目をつけ、この獲得のために柔軟に行動していたことは一つの驚きであるとともに、戦後に広まった認識を一日も早く改める必要性を示唆している。
歴史の中でも軍事史の分野では、日露戦争を主に扱った歴史小説や、兵器の解説や局部的戦闘経過の解明につとめる軍事マニアの読み物が幅を効かせ、科学的・客観的な方法に基づく歴史学が入り込む余地が少なかっただけでなく、マルクス主義史観の横行によって、研究活動が門前払いされる例も多々あった。近年、ようやく文部科学省の科学研究費も軍事史研究に配分されるようになり、幾つかのプロジェクトが立ち上がってきた。こうした現象は好ましいことには違いないが、とかく成果主義に流れる傾向があり、数年ならずして分厚い報告書を出し、大きな成果を出したような錯覚を与える。