80年代、抜群のセンスで憧れのミューズとなり、「雨音はショパンの調べ」で鮮烈な印象を残した小林麻美さん。極秘出産と結婚を同時に発表して、91年に突如引退してから29年。その間どんな日々を過ごしていたのか、引退・復活劇から日常、親交の深いユーミンとの再会まで、作家の林真理子さんが迫ります。
【前編/「母親の日常しかやってなかった」小林麻美が電撃引退後の生活を林真理子に語る】より続く
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林:小林さんは仕事が順調にいきかけていたのに、ある日突然、「ここは私がいる場所じゃない」ってロサンゼルスに行っちゃったんですよね。
小林:私、けっこう生意気だったんですよ、きっと。あと、いろんな意味でちょっと病んでたのかもしれない(笑)。でも、ロサンゼルスは私にとって特別な街で、あそこで自分が再生したという感じです。16歳ぐらいでモデルになって、20歳で一度仕事をやめてロサンゼルスに行ったんですけど、そのたった4年ぐらいのあいだが激動の人生で、濃密な10代の4年間だったなと思います。
林:そのあと日本に帰ってきて、パルコのCMに起用されて、また快進撃が始まったんですね。
小林:当時パルコが最先端の広告をつくってて、たまたま22歳ぐらいのときに抜擢されたんですけど、スタッフが最高峰の方たちだったんです。私はまるで子ヒツジのように右も左もわからない中で、魔法つかいに魔法をかけられた感じでした。
林:そのあと資生堂のキャンペーンモデルの仕事が来たんですね。尾崎亜美さんの曲でしたっけ。
小林:「♪あっ気持ちが動いてる たったいま恋をしそう……」(「マイピュアレディ」)という歌。
林:あのころのCMは今とまるきり重みが違うというか、広告の時代でしたよね。話が変わりますけど、35年くらい前、「装苑」で月替わりの編集長という企画があって、私、「装苑」の編集長をやったんです。希望して私はパリコレを見に行ったんですけど、その前の月替わり編集長が小林さんで、小林さん、表紙に出てらしたんです。ソニア・リキエルか何かのニットを着てらしたけど、小林さんがスタイリストの人に「リボンをもっと力なく結んで」と言ったということを、担当編集者が書いてたんです。