小林麻美さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・加藤夏子)
小林麻美さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・加藤夏子)
この記事の写真をすべて見る
小林麻美(こばやし・あさみ)/1953年、東京都生まれ。72年、「初恋のメロディー」で歌手デビュー。70年代後半、資生堂、パルコなどのCMが話題に。84年、松任谷由実がプロデュースした「雨音はショパンの調べ」が大ヒット。91年、結婚を機に引退。主なアルバムに「CRYPTOGRAPH~愛の暗号~」「ANTHURIUM~媚薬」「GREY」。主な映画出演作に「野獣死すべし」「真夜中の招待状」。2016年、「クウネル」(マガジンハウス)の表紙で25年ぶりに復活。四半世紀の沈黙を破った新刊『小林麻美 第二幕』(延江浩著、朝日新聞出版)が好評発売中 (撮影/写真部・加藤夏子)
小林麻美(こばやし・あさみ)/1953年、東京都生まれ。72年、「初恋のメロディー」で歌手デビュー。70年代後半、資生堂、パルコなどのCMが話題に。84年、松任谷由実がプロデュースした「雨音はショパンの調べ」が大ヒット。91年、結婚を機に引退。主なアルバムに「CRYPTOGRAPH~愛の暗号~」「ANTHURIUM~媚薬」「GREY」。主な映画出演作に「野獣死すべし」「真夜中の招待状」。2016年、「クウネル」(マガジンハウス)の表紙で25年ぶりに復活。四半世紀の沈黙を破った新刊『小林麻美 第二幕』(延江浩著、朝日新聞出版)が好評発売中 (撮影/写真部・加藤夏子)

 80年代、抜群のセンスで憧れのミューズとなり、「雨音はショパンの調べ」で鮮烈な印象を残した小林麻美さん。極秘出産と結婚を同時に発表して、91年に突如引退してから29年。その間どんな日々を過ごしていたのか、引退・復活劇から日常、親交の深いユーミンとの再会まで、作家の林真理子さんが迫ります。

【小林麻美さんの写真をもっと見る】

前編/「母親の日常しかやってなかった」小林麻美が電撃引退後の生活を林真理子に語る】より続く

* * *
林:小林さんは仕事が順調にいきかけていたのに、ある日突然、「ここは私がいる場所じゃない」ってロサンゼルスに行っちゃったんですよね。

小林:私、けっこう生意気だったんですよ、きっと。あと、いろんな意味でちょっと病んでたのかもしれない(笑)。でも、ロサンゼルスは私にとって特別な街で、あそこで自分が再生したという感じです。16歳ぐらいでモデルになって、20歳で一度仕事をやめてロサンゼルスに行ったんですけど、そのたった4年ぐらいのあいだが激動の人生で、濃密な10代の4年間だったなと思います。

林:そのあと日本に帰ってきて、パルコのCMに起用されて、また快進撃が始まったんですね。

小林:当時パルコが最先端の広告をつくってて、たまたま22歳ぐらいのときに抜擢されたんですけど、スタッフが最高峰の方たちだったんです。私はまるで子ヒツジのように右も左もわからない中で、魔法つかいに魔法をかけられた感じでした。

林:そのあと資生堂のキャンペーンモデルの仕事が来たんですね。尾崎亜美さんの曲でしたっけ。

小林:「♪あっ気持ちが動いてる たったいま恋をしそう……」(「マイピュアレディ」)という歌。

林:あのころのCMは今とまるきり重みが違うというか、広告の時代でしたよね。話が変わりますけど、35年くらい前、「装苑」で月替わりの編集長という企画があって、私、「装苑」の編集長をやったんです。希望して私はパリコレを見に行ったんですけど、その前の月替わり編集長が小林さんで、小林さん、表紙に出てらしたんです。ソニア・リキエルか何かのニットを着てらしたけど、小林さんがスタイリストの人に「リボンをもっと力なく結んで」と言ったということを、担当編集者が書いてたんです。

次のページ