例えば韓国に行った北朝鮮の若者が、自動販売機の中に人が入っていると思ったり。マンションなのにかまどがあったり。医療技術が低すぎたり。さすがにそこまでではないのでは? と私も思う。
というのも、実は私は去年、北朝鮮を一週間旅したのだ。日朝友好の絆を女性たちで深めていくために、1999年に故清水澄子議員が提唱した「日朝友好女性訪朝団」に参加した。平壌は、経済制裁の爪痕を一切感じさせない豊かさで、外車がたくさん走っていた。視察で訪れた産婦人科病院には女性医師が半数以上いて、最新のMRI等が揃っていた。脱北者は農村地帯の方が多いと聞くが、少なくとも平壌の景色からは、マンションにかまどがあるとは信じがたい。また、「愛の不時着」の舞台となっている開城や板門店も訪ねることができた。
朝鮮戦争時、アメリカは開城までを「南朝鮮」にすると考えていたため、開城の街は爆撃されなかった。そのため昔の建物がそのまま残っている。古い民家を利用した喫茶店でコーヒーを頼むと、ウェートレスの女性がインスタントコーヒーを100回くらい丁寧にかきまぜてくれた。壁にはなぜかリラックマの時計が飾られていた。女性のチマチョゴリの丈が短く、くるぶしがしっかり出ていて、韓国とは着方が違うことも印象に残った。
私はこれまで北朝鮮で見たことをあまり書かずにいた。というのも帰国後、平壌の街は美しく、経済制裁の意味がないほど外車がたくさん走っていて、出会った女性たちの知的さに感心したというようなことを言うと、すごく親しい人にすらニヤニヤして「洗脳?」と言われ、面倒になってしまった。
もちろんどんなオシャレな服にも指導者の顔バッジをつける姿や、テレビをつければ同じ顔、勇ましい声色が流れるなど、日本で生まれ生きてきた私には理解できないことの方が多い。それでも、「ああ、もう一度行って平壌冷麺を食べたい」「ああ、あの人にもう一度会いたい」と、食べたいもの、会いたい人が違う国にある、という経験は何よりも貴い経験になった。
というわけで、「愛の不時着」。今、私が「開城に行ったんだよね」と言うと、ぎゃー!!うらやましい!としか言われない。人の心は不思議、そして移ろいやすい。それでも、愛はやっぱり美しいものであってほしいと、私たちは信じたいのだ。安倍さんの言う「愛」など、うんざりなので。