

母親の死をきっかけに、「明るくたくましく生きる」ことを模索し続けた波瀾万丈の人生。女優であり、社会福祉士としても働く斉藤とも子さんは人生の先輩たちから、人生で大切なことは何かに気づかされた。
【写真】ナレーションを努めた「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」
11歳のとき、母をがんで亡くした。
「私が死んでも、お父さんの言うことをよく聞いて、妹と力を合わせて、明るく生きていきなさい」。自分の命が長くないことを知っていた母は、とも子さんに、病床から何度となくそう言い聞かせた。明るく生きていくとはどういうことなのか。小学生だったとも子さんには、言葉の意味がよくわからなかった。
「その数年後、日本テレビで高峰秀子さんと千秋実さんが夫婦を演じた『微笑』というドラマが放映されていました。がんに侵された妻と、献身的に尽くす夫、子どもたちへの眼差しや周囲の人々との触れ合いなどが描かれていて、『お母さんが言いたかったのは、こういうことだったのかな』と、少し、母のことを理解できたような気がしたんです」
どうせ死んでしまうのだから、好きなことをやって死にたい。女優が人を元気にする仕事だとしたら、携わってみたい。そう思って、俳優養成所に入った。
「10代の頃は、すごく仕事に燃えていました(笑)。ただ、優等生の役が多くて、私自身はそう見られてしまうことに抵抗がありましたね。それで、“優等生”というレッテルを貼られることへの反発から、高校を中退してしまったんです」
1979年には、鶴田浩二さん主演のドラマ「男たちの旅路」の第4部「車輪の一歩」に出演。脊髄損傷によって車椅子生活を送る少女の役だった。
「仲間に誘われて、勇気を振り絞って外出してみたら、踏切の線路に車輪が挟まって抜けなくなる。すんでのところで健常者に助けられるのですが、帰り際に排泄のコントロールが利かなくなって失禁してしまうんです。深く傷ついたけれど、仲間に励まされ、最後にまた外出して、駅の階段で、『誰か私を上まで上げてください』と叫ぶ。とても難しい役でした。鶴田浩二さんの『世の中には、かけてもいい迷惑があるんじゃないかな?』というセリフが腑に落ちたのは、それからずっと後のことです」