野村監督も負けていない。翌日、「あの場面は120パーセント、歩いて(二塁へ)行けるようでなければな。そう思ったから言ったんだ。深い意味はない。原(監督)の指示ではないというのは、わかったんだよ。伊原が行かせたのなら、なお納得だ」と説明。「阪神のとき(1軍守備走塁総合コーチ)もメチャクチャしよった。『盗塁だけは僕に任せてください』と言うから任せたら、出たランナー、みんな走らせる。参ったよ」とやり返した。

 売り言葉に買い言葉とはいえ、阪神時代のことまでこき下ろされた伊原コーチは、この屈辱を忘れなかった。翌09年、交流戦で因縁の楽天に4戦全勝すると、「一字一句漏らさず書けよ」と報道陣に念押ししてから、「野村監督様。今年の交流戦は4連勝させていただき、ありがとうございます。これもひとえに『ノムラの考え』のお蔭でございます。昨年頂いたお言葉は非常に参考になりました。今日は1年間お預かりしていた、あのお言葉をそっくりそのままお返しさせていただきます。バッカじゃなかろかルンバ♪」と“ルンバ返し”で溜飲を下げたのだ。

 ネット上では「おとなげない」などの声も出たが、発言の真意は、1年前、野村監督にバカにされた走塁面で、相手の隙をつく積極果敢な走塁を見せ、進歩した成果を十分見せつけたことにあったようだ。

 1年もかけてリベンジの機会を狙っていた伊原コーチのしつこさを、野村監督は「オレに対する敵対心だよ。オレにやられるから腹が立つ。非常にいい(敵対)関係だよ」と評したが、実は両者の“いい関係”は、伊原コーチの西鉄選手時代にまで遡ることができる。

 72年5月3日の南海戦(大阪)、7番サードでスタメン出場した伊原は、2回に村上雅則の内角直球を左越えに先制ソロ。すると、2打席目で捕手の野村がささやいてきた。「おい、さっきは狙っていたんかい?もういっちょ行くか」。その言葉を真に受け、内角直球に的を絞ってバットを出したところ、なんと、外角への変化球。辛うじて当てたものの、二ゴロに打ち取られた。3、4打席目も無安打に抑えられ、チームも逆転負け……。野球少年時代は南海ファンで、野村にファンレターを出したこともあるという伊原だが、皮肉にも憧れの人からプロの厳しさを思い知らされたのである。

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かつてはチームメイトでもあった2人