最終回で取り上げた東京五輪の閉会式を取材する開高健(撮影/永山義高)
最終回で取り上げた東京五輪の閉会式を取材する開高健(撮影/永山義高)
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開高健の記念碑的ルポルタージュ「ずばり東京」第1回(「週刊朝日」1963年10月4日号掲載)は「日本橋」を取り上げた
開高健の記念碑的ルポルタージュ「ずばり東京」第1回(「週刊朝日」1963年10月4日号掲載)は「日本橋」を取り上げた

 寿屋(現サントリー)のコピーライターから作家に転じ、数々の作品を残した開高健(1930~89)。週刊朝日で連載した「ずばり東京」は、語り継がれるルポルタージュである。五輪を控えた首都の変容と熱気を、変幻自在の文章でとらえた。2度目の五輪を前に、文豪の後ろ姿を追う。

【写真】「ずばり東京」第1回が掲載された1963年の週刊朝日がこちら

 57年前の1963(昭和38)年初夏。アジアで初めての五輪開催を1年後に控えた東京は、その姿をがらりと変えようとしていた。

 しかし開高はその頃、スランプに陥っていた。デビューしてから6年。「裸の王様」で芥川賞を獲り、華々しく文壇の寵児(ちょうじ)となったが、やがて白紙の原稿用紙を前にして煩悶(はんもん)することになる。

 それ以前、酒の席で先輩作家である武田泰淳からこんな助言を受けていた。

「小説を書けなくなったら無理することはない。ルポを書きなさい。ノンフィクション。小説の素材やヒントがつかめるし、文章の勉強になる。書斎で酒ばかり飲んでないで、町に出なさい」

 そんな頃、開高に執筆依頼をしたのが「週刊朝日」だった。「日本人の遊び場」をお題に、東京のレジャー施設をルポルタージュする連載だ。開高は7月から9月まで、ボウリング場、パチンコ店、ナイター映画館、湘南の海など、レジャーブームに沸く人々の姿を13回にわたって記録しつづけた。連載は好評を博した。

 当時の週刊朝日編集長・足田輝一は、雑誌「面白半分」でこう記している。

「味をしめたわけではありませんが、このみごとな現代の語り部を編集部から手離すにしのびず、ひき続いて長期の連載を頼もうということになったわけです」

 その続きが「ずばり東京」だった。

 時代は高度成長期。太平洋戦争の焼け跡から這い上がり、朝鮮特需や岩戸景気を経て日本の経済力は右肩上がりに上がっていた。64年にはOECD(経済協力開発機構)の加盟国になり、IMF8条国に移行する──そんな時代である。

「復興」を世界に向けてアピールしよう、としたのが東京オリンピックだった。国を挙げてのイベントの舞台となる東京は、日々ものすごい勢いで変貌(へんぼう)していた。いたるところが工事現場となり、都内に張り巡らすように首都高速道路が建設され、東京と大阪を結ぶ東海道新幹線が開通、羽田空港と都心を結ぶモノレールも開通した。

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