取材中は、メモを取らなかったという。

「素晴らしい記憶力で、取材帰りの車の中で思い出し笑いをしながら、正確に話を再現するのです。開高さんに言わせると『記憶に残っていないものは書くに値しない』ということだそうですが、メモなしでは私たち記者は記事が書けませんから、驚きでした」(永山さん)

 取材先から編集部に帰ると、「飲もうや」と記者たちを誘い、大いに飲み食いした。永山さんによると、開高はまさに健啖家で、銀座の焼き鳥屋で一人で58本を食べた、という逸話が残っている。

 そんな人柄は記者と作家という職種の壁もあっという間に壊した。

 当時は新聞や週刊誌の記者には「作家は小説、ルポはオレたちの領分」という意識が強かった。純文学の作家がルポ連載に乗り出してくる、というので、ベテラン記者たちは複雑な思いを抱いていた、と永山さんは遠い日を思う。

「開高さんの連載が決まって、初めて編集部に来たとき、先輩記者たちの間には緊張感が漂っていました。“我々の職場を荒らしに来るのはどんなヤツなのか”と、部員たちは迎えたわけです。ところが、開高さんは、一瞬でその雰囲気を和らげてしまった」

 人懐こいユーモリストでもあったのだ。

「大きな声で顔をくしゃくしゃにしながら『いやもうあきまへんな。昔は髪の毛が密林のように生えていたので、整髪料を振りかけても額のほうまで落ちてこなかったのに、今はもうツルツルって落ちてきよるんですわ』って。みんな爆笑です。一気に編集部員の心をつかんでしまいました」

「ずばり東京」の連載中に、東大教授で政治思想史の研究者だった丸山眞男からお褒めの手紙が届いた時は、開高も喜んだという。

 評伝『開高健──生きた、書いた、ぶつかった!』を書いた作家の小玉武さんはかつて寿屋宣伝部員として、折にふれて開高の助言を受けた。「ずばり東京」が読者の心をつかんだ理由のひとつを文体の工夫だったと指摘する。

「ルポを書き始めた開高さんは、いくら取材して、その分野の専門家の話を聞いても、しょせんは半可通になったにすぎないのが気持ち悪いと言っていました。その苦しみを突破するために出した答えが『文体』でした」

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