そんな首都で今、何が起きているのかを、希代の名文家がとらえていく。
通常なら、この手のルポルタージュの連載は1~2本のストックを作ってから臨むところ。だが、開高は、「日本人の遊び場」の連載が終わった翌週から、「ずばり東京」をスタートさせた。
第1回は、変わりゆく東京の象徴でもある日本橋をテーマにした。突貫工事で建設されつつある首都高速道路によって空を塞がれ、下を流れる日本橋川の水は排水で真っ黒に汚れてしまった。そんな日本橋で生きる古老たちを取材したのだ。
企画は「大当たり」だった。以降も毎週、都内各所を取材して回り、多くの人の話を聞いた。
ある時は連日連夜深夜喫茶に潜入、またある時は深夜タクシーの運転手たちの話に耳を傾けた。当時増えていた豪華社宅の若者と人生を語り合い、87万個の忘れ物を扱う「遺失物収容所」に足を運び、「トルコ風呂」で働く女性たちの声を聞いた。
連載第14回「東京タワーから谷底見れば」では、<人ごみと自動車と煙霧のなかで私たちは血まなこのワラジムシのようになって暮しているので、なかなかのみこみにくいイメージなのであるが、空から鳥の目で見おろしてみると、東京は意外に“緑の都”なのである>と、俯瞰して考察した。
400字詰め原稿用紙14枚。臨場感に満ちた原稿は時に入稿が締め切りギリギリになり、輪転機のそばで原稿を書いたこともあったという。
休むことなく連載は58回続き、64年11月6日号の最終回で、東京五輪の閉会式を取り上げた。
当時の週刊朝日編集部員で、現在は開高健記念会理事長を務める永山義高さんは、連載担当の頃を思い返して述懐した。
「取材に同行して感じたのは、開高さんは記者である私たち以上に取材がうまいということでした。これは驚きでした。持ち前の大声で取材相手に質問したかと思えば、『ほうほう、それで?』と絶妙のタイミングで突っ込んでいく。相手の答えには『えぇ~!』『はっはぁっ』と大げさに驚いたり、大笑いして面白がったり。とにかく天性の聞き上手でした」