被爆者に会いたいと思ったのは理由がある。戦後70年を迎え、当時報道局記者だった久保田は、戦争の記憶を持つ人がいなくなることが次第に気になり始めていた。それまで行ったことのなかった沖縄の集団自決の現場であるガマ(壕)や、特攻隊基地があった鹿児島県の知覧、ナチの強制収容所・アウシュヴィッツなど内外の戦跡や資料館を回り始めた。やがてある町の存在が胸の中に宿った。広島だった。広島にはすこし複雑な思いもあった。
横浜市で生まれ、小学生時代は神奈川県内で育っている。父親の転職にともなって中学1年の時に広島県東広島市に転居。広島市内の県立高校に通い、中高時代6年間を広島で暮らした。とはいえ、家族に被爆者がいるわけではない。広島を語る人はたくさんいる。自分には資格がないと、距離を置いていた。しかし戦争について考えれば考えるほど広島は避けて通れないものになっていく。ちゃんと向き合いたい。もっと知りたい。
笠岡と初めて会ったその日、時間を気にすることもなく、気の向くままに話をした。「取材ではなく、個人的な関心で会ったのでだらだらという感じでした」。そうやって目的もなくいろいろなことを話すことで、短い取材ではわかりにくい心情が見えてくる気がした。いままで自分は、聞きたい話だけ、その人に言ってもらいたい話だけを引き出していたのではないか。そう感じたのだ。
その頃、久保田は転機を迎えていた。2015年に他局の記者と結婚。ニューヨーク駐在となった夫とともに渡米することとなり、翌年TBSを退社した。せっかく米国で暮らすのなら何かしたいと、ネットで歴史の伝承について検索をしていたら、フェイスブックの広告で、コロンビア大学のオーラルヒストリーのプログラムを見つけた。「あ~、こんなのがあるんだ」。笠岡との会話で感じたこととつながるのではないかと思った。同大は、オーラルヒストリー研究の組織的プログラムを世界で最初に作った大学だった。久保田は同大院東アジア研究所客員研究員となり、修士課程に進んだ。取材のキャリアも生かせると思った。
インタビューが好きだった。心がけていることがあった。「インタビューは、相手と必ず対等でなければならない」ということだ。大物タレントに話を聞くとする。そういう時、往々にして取材する側が恐縮した態度になりがちだ。それだと、自分が下手に出る分、相手が持ちあがり、実像以上に見えることになる。それが嫌だった。どんなに大物であろうと「あくまでも、その人の素のままの個性を知ってもらいたいからです」。
ミュージシャンの山下達郎にラジオ番組でインタビューしたことがある。ひとしきり音楽の話をしたあと、「なんで髪形だけ変えないんですか」と聞いた。ずっと疑問に思っていたのだ。質問された山下は、笑いながら答えた。「それは僕のルサンチマン(「憤り」などの感情)なんだよ」。何かに対する反抗だと久保田は理解した。後になって山下から「あの質問は面白かった」と言われた。
(文・高瀬毅)
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